さて、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)も、という言い方も変ですが、一段落しました。
ここの一番下にリンクを貼ってありますけど、本サイト、「日記」というタイトルのサイトですね、あそこはもうupしません。あれで終わりです。私が認知していない改変されている場所もおそらくあるので、それの修正と、後は句読点や微妙な仮名遣い等の微修正、は、行う予定です。あと、カードの類ね、タロットとかオラクルとか(専用の別サイト作ろうかな~とも思ってますけど、ちょっと分かりません)。
この「ß」(エスツェット)というサイトについてはポツポツ何かを書いてupしていく予定です。雑記ということで。まあね~、書いたものを上記本サイト「日記」に変な形でupするかもしれませんけどね~、多分やらないでしょう、ということです。
で、ね、エニアグラムだけはケリを付けといた方が良いので、はっきりと色々書いていきます。エニアグラムって、竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」ね。
私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は「データドリヴン」なヒトではありません、し、スペシャリストタイプでもありません(竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ4に該当するかどうかとは別問題)。だからいわゆる学究の人とはちょっと違います。私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、竜頭万里子さんから、タイプ2、タイプ4w5、タイプ3(調和タイプ)、タイプ6(調和タイプ)、タイプ9(調和タイプ)、との「判定」は頂いておりません。
竜頭万里子を自称する特定一個人か人間集団(以下竜頭万里子さん)が実在するとして、どうもね、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)と竜頭万里子さんを同一人物に仕立て上げたがっているもしくはしたがっている特定一個人か人間集団が居るということなんですよね。杉浦真平は竜頭万里子さんではありません。竜頭万里子さんはこれをご覧になっているでしょうか。竜頭万里子さんだって杉浦真平と一緒にされるのはお嫌でしょう。
自由英作文を一つ載せます。
There is a difference between a door and a gateway. We must distinguish "door" and "gateway." Is this a problem in English? No. There are Arabic, Hebrew and so on, and we do not live in a world of languages. Language is not the gateway to culture, but maybe language is the door to culture. You have already committed diplomatic dialogue.
こういうことです。ご謙信を。竜頭万里子さんはかつて「究極のエニアグラム」の一側面を「ユダヤの知恵です」とおっしゃっていました(タルムードから派生してのという意味での言)が、現代のイスラエルの人々がそれをどう鑑みるでしょうか?
自由英作文をもう一つ載せます(別所にも載ってます)。
Have you ever had green tea? A cup of that is so delicious and good for our health. Viridian leaves give inspiration of self-portrait to us. ......I am not going to attack or scorn the people of your country, but I think that you have to think of yourself again. When it comes to "You are not alone.", some people like you and some people dislike you. There are enemies. From the geographical point of view there is a distance between you and me(us), but why can each of us become a good friend among these neighbours? Please do not ignore one of "human addiction." You said the same of "Everybody's someone else's bad person." as well. An ironical expression is nevertheless misleading. We know each other.
かつて私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は竜頭万里子さんに手紙で「私に危害を加えている特定の人物が(私に対して)自作自演を行っている」という内容を告げたことがあります。その自作自演(人間集団)が私Shinpei Sugiura(杉浦真平)と竜頭万里子さんを同一人物に仕立て上げたがっているもしくはしたがっているものであるという可能性が(ある程度)あります。
私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は一般のエニアグラムはエゴグラム等と同じくくだらないと考えて深くアタッチしなかったんですけど、ところでさ、累進加点制でエニアグラムやってるヒトたち居るじゃん?あれ何のアテにもなんないから。ちょっと言い方が悪いけど、measureに長さはあっても数値化するのはナンセンスだから。
現代社会に生きるヒトをJesus呼ばわりするのってナンセンスですよね、Jesusは二千年前に生きていたと言われているイエスさんだけですよね。竜頭万里子さんは「(古代の?)キリスト教徒はタイプ2の集団であった(という(エニアグラム上の)説もある)」とおっしゃっておられました。「タイプ2w1の友達はタイプ2w1だけ」との言もあり、また、「タイプ2w3は精神科など行かず……」と同タイプ2w3をキャラクタライズしておられましたが、別のところで「タイプ2w3は(タイプ2w1と対比されると)少しは悪い人間も居ると思っており……」と特徴付けてもおられました。ところで、竜頭万里子さんとてJesusではないでしょう、ということがあります。
ところで、性格というと冨樫義博さんの漫画の「ヒソヒソのオーラ別性格診断」だっけ?、が、個人的に有用だと鑑みております。あ、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は基本的に(は)冨樫義博さんの漫画のファンですので。漫画一般のファンではないです。漫画読むんだったらちゃんと読もうね、ヴィジュアルどうでもよいから。……私?y₌e(₌2.71...)のx乗のグラフが好きです、漫画の絵の見方っていうのはそういうものですよね。
私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、
あまり単純ではありませんが、一途です、量が増えるかどうかは対処する物事によります、
嘘という発想自体があまり在りませんが、気まぐれです、味は頻繁に変えていきます、
(ある程度)(は)神経質です、不純物は不可抗力として生成されるものでしょう、
類というのはどういったことなのでしょうか、カリスマ性はありません、
「理屈屋」という場合の理屈は「理」とは違いますよね、マイペースです、必要の無いものにはアタッチしません、
短気か短気でないかは対処する物事によります、色はモノクロが好きです。
かつて竜頭万里子さんは、「エニアグラムに触れると、不思議な世界が見えるようになるようです」だったかな?、一見してはオカルトじみたそんなようなことをおっしゃってましたが、視覚情報だとそのような場形象、「自分が背後から光に照らされて出来上がった自分の影を見て踊る囚人に過ぎないことを悟る」その他の捨象された情報の反芻、あれはそれこそ冨樫義博さんの漫画の「炎殺黒龍波」みたいなものだと思われ、というのは、私の場合は長年ノイローゼ状態でもあったことの原因(の一つ)としてストーカーに連中の肉体を用いたエニアグラムの当て付けを屋外主に公道でやられ続けていたというのがあるんですけど、それが、最近は大分良くなってきたというかおそらく慣れてきた、と言うと、語弊があるんですけど、というのは、文章はもちろん自意識的に考えて書いてますけど、カードの類で現出されるあれですね、あれは全部事実であってそれを記録しているんですけど、ああいった形で出ちゃっているんですね。playing cardsのポーカー程度だったらばあまり驚かれないかもしれませんが、タロットやオラクルカードでもああいう風にピタッと出るのですね、もちろんシャッフルはかなりしてます、平面にバーッと拡散させるという形でも多々切ってます。
パスカルが、ポール・ロワイヤルに引きこもって修行に励み、ある時炎を見つめていて悟りを得て歓喜(というか、「救われた」、ということかな?)の涙を流したというのは有名な話ですが、これが事実だとすると、私とはもちろん切り口が違うということでしょうけど、400年前を生きていたパスカルさんにも、そういったものであった、ということだとは思います。
基本的にはね、「苦」ですよ、エニアグラムだけではなくて、抗精神病薬によってもたらされる精神的肉体的苦痛や、私の人間性的なメンタル的特質が、相織り為って、そうなっているとしか言い様がありません。
先述の通り、社会には科学と非科学の二元論を設定してその枠組みで物事の説明を試み後者に関する事実を無視するという非科学の信奉者が居るんですけど、もちろん私は現代社会を生きる大多数のヒトと同じく前者の信奉者であ(るという側面もあ)るということです、が、現代社会における流布された一般常識としての「サイエンティフィックな感覚」からすると認証し難いものであるという部分も社会的にはあるかな、とは思います。
医療従事者その他からの攻撃を受けると、こちらはある程度の反応をします。もちろんその具体的内容については解析済みでしょうけど、そういった反応をこちらにさせることで「空気を読めない」のレッテルを私Shinpei Sugiura(杉浦真平)に貼り在りもしない自分らの正当性を立証する(した気になる)ということを連中は行っているものであるということです。テロリズムをはじめとした自由とは呼ばれ得ないものであるところの責任を伴わない自由(めいただけのそうではないもの)に連中が加担していることは明白です。もはや、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は「沈黙は金、雄弁は銀」では身を守れません。暴力団員が「拉致して、シャブ漬け」にするものであるとしたら医療従事者(主に精神科医)は「シャブ漬けにして、拉致」するものであると形容すると分かりやすいでしょう、前者は農耕民族型の攻撃であり後者は狩猟民族型の攻撃であるということが言えます。デカルトは、判断というものは外部的な何らかを必要とするのでそこに誤謬が生まれると言っています。ここで判断の主体jeという概念が出てきます。記憶というものを考えてもらえば分かるんですけど、というか記憶というものがどういうものであるかということなんですが、現在の自己が過去の自己に依存することは自己の捏造であって、"Je pense, donc je suis."において"je suis"を意識しないということがどういう統合失調な認知・判断・行動の主体における喪失であるかということです。これは、"je suis"にまつわる問題ではなくて、時間の存在が単なる思惟様態として否定されているということもあります。
ヒトは三大欲求の内睡眠欲だけを我慢できないそうですが、かといって抑圧された食欲や性欲がヒトの行動原理になっているわけもなく、強引に他者において食欲や性欲が行動原理になっている「ことにする」畜生の如きフロイト信者の類の者やアドラー信者の類の者は地獄の底で貴様らだけのコミュニティで勝手に行っていて頂きたい。ああいった連中(板前さんに握ってもらった寿司も、客体ではなく、既に自分の肉体の一部、みたいな下等な連中)って、食事の味も性の喜びもその物事の本質的には分からないんでしょうね。敬虔なキリスト教徒のヒトたちは食事の前にきちんと儀式めいたお祈りをしますけど、一般的な日本人においてはせめて「いただきます」「ごちそうさま」が料理の作り手と目の前の食事や食べ終えられたものに対して言われるということがあるべきでしょう。
タイプ8→「食う」、タイプ7→「殺す」、タイプ3→「犯す」、タイプ4→「?」。これらは全て「タイプ○的なもの」とでも形容され得るものであり、竜頭万里子さんが判定したそれぞれのヒトにおける「究極のエニアグラム」の性格タイプとは(直接的な)関係はありません。竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ8、タイプ7、タイプ3、は、戦場上であるとすると理解しやすいそうですが、上記の形容説明で戦場が如何に悲惨なものであるかよくお分かりになられるでしょう。レーニンは竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ8w9だそうですが、もちろん戦争は悪徳であり愚行に決まっていますが、是が非でも戦争に否を突き付けるところから思考を出発させ「戦争を内乱に転化せよ」とするということが如何に悲惨な戦場のストーリーであるかご理解いただけるものと思います。そして実際、竜頭万里子さんに竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ8やタイプ7やタイプ3と判定されたヒト達、タイプ4と判定されたヒト達ですらも、が、上記の様であるかというとそうではないのですよね。百獣の王同士では「激しい殺し合い」です。タイプ8には「『自分はタイプ4だ!』と主張する」というヒトもおられるそうです。タイプ4的なものの「?」を自虐と表現してしまって適切かどうかは(この場では)分かりませんが、かつて竜頭万里子さんがおっしゃっていた「タイプ5にとってタイプ4などものの役に立たず……」ということにはそういうものもあるものであるかと思われます。……「どちらが」上手く社会を構成できるかという問題にもなってきますが、「脱皮できない蛇」だけでは明確に社会を構成できません。
タイプ8→「erase」、タイプ7→「absorb in」、タイプ3→「invade」、と云ってもある種良いかもしれません。
原因に対して結果があるのは当たり前です。結果の存在をワザワザtext化して標榜するヒトは全てのヒトが同じで平等であると思っている愚物であって、このようなヒトは権利すらもその本質的に個々のヒトにまつわる権利というものでなくしてしまう反社会的人間であるということです。例えば、選挙(権)は投票が為されて初めてその社会的意義を存立させます、が、選挙において不正が為される必要は無いということであり、何故ならば「『不正』の存在は被選択を為す」ということだからです。選挙におけるそれぞれの候補が得た票を民「意」という形でその定義に過ぎないものを取り扱うということは社会や民主主義の本質をナチズムや共産主義(政党としての共産党に言及しているのではない)と履き違えているということです。「選べる」などという幻想が在ると思ったら大間違いであり、機会にコストを要するという考えが明らかに間違っており、機会費用などというものは存在しません。具体的に法が実効している社会において人々は法の下の平等は保証されていますが法の下で平等であるわけではありません。そのgovernanceが法に依拠される個としてのヒトが治められるのではなく種としてのヒトが治められるのであるからこれは当然であるということであり、法廷での闘争ありき、執行者の存在と共に法が法として存在することが我々の幸せかもしれません。
審美主義者の弱点。
例えば、私はこの文章を書いている時点で「memo39」というタイトルの記事までこのブログにupしていますけど、普通は新しいものは新しい記事として書き足していくんだけど、キリの良いところで留めておこうとかいった妙なこだわり、いや別に美しくもなんともないことは自分で分かっているんですけどね、そういうものが生まれて、こういった既存の記事に追加更新とかやっちゃうという形になっちゃうとかいったことになる、とか。
ここまで書いちゃったのでそのままちょっと書きますけど、上記普通は新しいものは新しい記事として書き足していくということが普通でなく分からないヒトというのが居るんですよね。「僕はこうやります」「自分はこうやってます」みたいな。これは本格的に精神を病んでいる病気のヒトではないのかな(?)、と、素人判断でも思わされますね。
自分自身のことについては、客体として見ているというか鑑みているので、余程程度の酷く不格好ではない限り(ここなんですよね、たぶんポイント、システミックレイシズムにつながるか否かスレスレのところ、自分に対しても他人に対しても)、個々人の個性として(という形で)捻出される……ということが許容されるか否かということ。私Shinpei Sugiura(杉浦真平)はこの弱点を突かれるという形で攻撃されてます。私が竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ3やそのウイングを持つタイプに該当するかどうかとは基本的には別問題、いや別に私Shinpei Sugiura(杉浦真平)はタイプ2やタイプ3という竜頭万里子さんからの「判定」は頂いておりませんけどね。
世界がpara-したら、精神疾患ひいては規定体の一部となるということでしょう。社会がpara-したら、それはファシズムが台頭した世界というよりは、ナチス支配下のドイツのような社会が構成されているということでしょう。個人がpara-したら、それは読んで字の如く「それ自身から全てが発している社会ひいては世界が構成されている」、生物学的な自己同一性と社会学的な自己同一性の区別が付かないか自己同一性というものにおいて社会学的なそれしか存在しないというところの精神障害者、ということでしょう。狂信者の凶弾に倒れたジョン・レノンが何かを物語っています。
例えば、
「私は遺伝子に異常がある、よって私はstupidではない」、というのは間違っているのであって、
「私は遺伝子に異常がある、よって私はstupidである(遺伝子に異常が無いからといってstupidではないというわけではない)」、というのが正しいものであるということです。