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memo75 +α

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memo75 +α

もう書いた文章をネットにupするまいとは思ったのですが……


私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、

西暦2023年3月16日から西暦2023年4月14日にかけて帝京大学医学部附属溝口病院に入院していました。

同院の医療従事者の方々ならびに初見で診察をして下さった自宅近くのクリニックの医師の先生におかれましては、この場にて厚く御礼を申し上げます。




以下にupする手記は、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)によって入院中に手書きで書かれたものです。私がupしているこれらブログ内の文章は、ところどころ手書きの文章が元ネタになっているものがありますが、その場合でも手書き率は50%~80%くらいです。以下の文章に関しては、手書き率が97%~98%くらいです。私の場合手書きだとだいたいこうなりますよといういい見本かと思われます。プロットは若干変えてありますが、記述された年月日を(最初の方のものを除いて)正確に記載してあるので、これについては問題は無いかと思われます。




"distrust and verify"  by Mike Pompeo (西暦2023年3月中旬の産経新聞の記事より)




手記0。(西暦2023年3月中旬記述)


日々、様々な考えや思いが浮かんでくるが、それについての能動自体の反動で散発的にオーバードリヴンされたそれに支配されるようでもある。その場合、自分の自覚意識的な思考というものとは別なので、それは非常に苦しく不快なものとなる。出てくる答えは、もちろん、滅茶苦茶である。まるで、それ自体が、自分にまつわる「正覚(せいかく)な」答えであるかの様に、思い込まなければいけない義務錯覚的なものというのも存在する。(これは、精神医学で言うところの、「念慮」の一であろう)。これは、つまびらやかな勃興という形で私の中に存するが、その下地とでも云うべきものは恒常的である。これは、今回、抗精神病薬をしばらく断薬していたとか、再び服薬し始めたとか、そういったことに関する事ではなく、以前(数年前)からあったものである。一部、それを当該的にもたらす抗精神病薬の様な薬物もある。

肉体が健常であればある程、三度の食事も美味くなる。私個人はあまり朝食というものを好まないが、朝食も充分に美味い。三度の食事の為に働くという(おそらくはごく当たり前の)発想は、健常者のそれであると、最近、私は、考えるようになった。「おいしいごはん」はどうか分からぬが、「ごはんがおいしい」というのは健康の証であろう。どころで、前者は(社会的に)若干嫌味なニュアンスのある表現である。糖尿病患者の身で、私は、好きなものをたらふく食っていた分際の者として、そのことは明確に理解出来る。病院の食事は実に美味い。というのは、元々母親の作る食事があまり美味くなくて、私は給食の類が好きであったというのがあるが、病んだ体に適したという形での美味を与えてくれるという事の有難さが、特に今の、私には、よく分かるからである。…他者からの攻撃を受け、社会には明らかに悪質な人間も存在するという事を知った現在では(私が遭った目は相当酷いものである)、善良な人々や人と人とが助け合うことの大切さが身に染みてよく分かるものである。私は、もはや、医療従事者の人々には、自分の身体を診てもらえぬものと覚悟を決めていた。確かに精神医療の現場は酷く、問題が多々存在するものである。しかし、一義的に物事が断決されて良いものではない。看護師の人たちの、献身的な態度や物事への対し方を見ていると(少々言い方に問題があるかもしれないが、上下両方に対する、ということである)、それは容易に理解出来るものである。医師と患者の間を取り結ぶのは簡単ではない。精神科医らと、精神病患者として相対し、時には戦ってきた私にはそれはよく分かる。彼らは、どうしても患者において、「辛さの厭世主義」を誘発してくる。これが、「「強さの厭世主義」という勘違い」へと化けることが非常に危険なのだが、それを、医学的そして生物学的に「本当のこと」を提示することによって、患者をその様な態から救ってくれるのが看護師の人々である。

確かに、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)の親族に(幸いにもその人物とは血はつながっていない)私に対して攻撃をしてくるおぞましい女も居る。その人物から、医療従事者の人々がどれだけ私の身を守ってくれたか分からない。「甘いもの」を接種することで、どれだけ存在が汚されるかということである。私の敵方(例えば前述の親族の女)は、その様に私を攻撃してくる。それは、看護師や医師の人々の親切さとは類を異にする。これは、「サタンにおける憎悪の帳」と「本物になると考えるだけになる哲学者のその思考」との違いの様なものである。




手記2。(西暦2023年3月中旬記述)


これら文章も、crash to createの繰り返しとは云わぬが、私の破壊衝動の様なものを原理として書かれているのかもしれぬ。私は精神科医ではないし、精神医学に関する専門的な知識も殆ど無いが、その辺りのことは、漠然とした感慨ではなく、理屈上理解出来るものである。例えば、自分が自分の母親から生まれてしまったという事実を私はいたずらに否定する気は無い。しかし、赤子の(だった)自分のおぞましさや自らにまつわる苦しみの様なものから目を逸らすことは出来ない。生の鼓動で命がつむがれていくというのであれば、それは私にとっては少々辛いものである。死(へ)の欲動は精神の分裂をもたらす。「その」状態の方が、私にとっては、残念ながら、楽な様である。只、これは錯覚かもしれぬ。精神科医はきっとこう言うだろう、「大丈夫、あなたは必ず良くなる」、と。もちろん私はとうに成長期は過ぎているが、時を経るという意味で、ヒトが生育するという過程において、教育と被教育は違うということが出来る。被教育による自由の伸びしろは教育によって埋め合わされていくべきだろう。教育とは未来の産物かもしれぬ。

ところで、私は齢四十過ぎの中年男である。その現在になって、自由とは何かということを説明する理はあっても、気概は持たぬ。ふしだらなものを排除し、自己を統制するべくのある種の社会参画意欲は、当然もはや習慣として身に付いている。人生幾つになっても勉強というのは(その様に)然るべきものである。…"death education"という場合、教育が未来の産物であるとは限らぬ。それを牛耳るのは(物理的な)強制収容所の管理者ではない。……それは、既に私とともにある。物理的な事物の表象がそれの代替物であるわけではない。認識論めいたことを言っても(この)問題の解決にはならぬかもしれぬ。「問題の解決にはならぬ」というのは、教育が未来の産物ではないということである。そこには、自らの亜種が(恐ろしくも場合により自覚的に)立ち上がるであろう。




手記4。(西暦2023年3月21日記述)


自らを擬態するとは何か。例えば、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、自分の日常生活における食生活の改善の余地の具体的内容など、他に書くべきことは幾らでもあることを理解している。にもかかわらず、こういうことを書く。…私は自分で自分を擬態している。それを虚飾であるという人も居るが、擬態、それも自分で自分を擬態するということと、虚飾とは違う。確かに、私は、自己顕示欲は殆ど無いが、虚栄心は強い。この文章の羅列(させること)自体も、一種のvanity fairであるということだろう。私は、太宰治氏の小説はあまり好きではないし、フランス文学に造旨が深いわけでもない。ここで、「フランス文学といったって色々ある」という一般的アカデミズムの見解は採用されない。他人を擬態し出したらば人は終わりであり、それは正に左翼全共闘の世界である。「他人の中に自分を見るな」ということである。




手記5。(西暦2023年3月22日記述)


西暦2023年3月16日の夕方より、帝京大学医学部附属溝口病院に入院している。病院内で出る食事は実に美味い。有難い限りである。血糖値も、昨夜は、87を記録し、ここ一週間で大分症状も良くなった様である。右足の患部は、まだ若干痛むが、炎症反応の数値も下がり、大分落ち着いてきた。

食事は全て頂いているが、ところで、やはり、肉や魚や卵を食べるにあたって、罪深さを感じないわけではない。美味しく調理されたそれらを頂戴するとなると、事は特別である。特にこれは、その食事を作ってくれる調理師の人たちやメニューを考えてくれる管理栄養士の人たちへの文句では全く無い。彼らに対しては感謝の念しか無い。只、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)個人の信条が間違っているとは考えない。生まれついた肉体の歪みに因る苦しみを患っている私には、畜肉にされる家畜の苦しみがよく分かるつもりである。大体、「家畜」という(日本語における)言い方がどうかと思われる。英語では、"live stock"である。ものの命を、自らが生きる為に頂くという、その原理的倫理性があらわれているのは明らかに後者である。このことには、もちろん、キリスト教徒的な価値意識が根付いている。彼らは、(生物として動物性の栄養を必要とするにあたって)どう自分以外の生き物に対するかということをよくよく考えている。由来としては、多極的に偶発的かもしれないが、「いただきます」「ごちそうさま」といった挨拶の礼儀作法や、「天にまします我らの神よ…(食事を与えていただきありがとうございます)」という感謝の礼示(というおそらく一つのものの考え方)は、そういったことに基づくものだろう。「食うか食われるか」などといったものは、狩猟民族的な戦場の生き物のそれである。彼らは、食前食後の挨拶など度外視である。彼らには、人々が(ヒトが)神概念を抱く以前の生き物としての名残りがある。彼らは、動物的に見えるかもしれないが、決して狼(など)ではない。神概念そのものが(儀)礼的であるということも出来るだろう。それは、(ある種のヒエラルキー的な?)社会構造そのものを「社会的に」(人々の(ヒトの)間に)喚起させる。ニーチェは、「強さの厭世主義というのはあるのか?」といった様なことを言ったが、それに至る経緯はどうあれ、彼は(おそらく)戦場の生き物である。もちろん、厭世は厭世であり、世にはばかり知れぬということである。彼らは、人を「食って」いる。タナトスが精神の分裂をもたらさないという詭弁は人を「食ってる」輩の一種のavariceである。義化された欲望の産物によって、(彼らは)「神によって盲目をもってして(その様な)罰を喰らっている」。シラーは、その文学作品「群盗」で、それを「豚の群れ」と表現したが、神の無い人間のあわれさには過去多くの知識人が言及している。確かに、現代の新興宗教にしばしば見られる様に、邪教というのはあるが、少なくともこの二千年、ヒトを現態の様に進化させたということにおいて、宗教というものの役割は大きい。ジャン・カルヴァンがそれを為そうとした様な(に)、生活までが教義化されるということにおいて、現代社会ではその役割は薄らいでいるかもしれないが、「根差す生き物」としてのヒトは、その意味で(は)「土から離れては生きられない」。様々な代替物が現れ、品を変えながら人々はそれ(ら)に頼り生きて来たが、ともかくも、「神は最初に天と地をつくった」。別に、天と地はversusな関係でもなければ、天と地は互いのパートナーでもない。神というものが人にとってどういうものであるか考えればおのずと答えは出てくるはずである。…特に女性にはよく分かるはずである。人への感謝というものが、どういったところから湧き出で、とういったものであるか。私には、愛というものを例えば具体的に語れといわれても難しい。しかし、愛し合う人々がどういった様であるか見ていればそのあたりのことは大体分かるものである。もしかしたら、彼らの中には、見ているだけの私を嫌う人も居るかもしれない。しかし、物事の具象性を超えたところにそれは存し、私もまた社会の一員である。弱さは罪であるということが出来るだろう。それは厭世を招くからである。生物学的な抵抗体力の強さ(弱さ)もそれに含まれるだろう。「神の国へ…」といった場合、ヒトはどういった生物に進化しているだろうか?既存の我々の常識が全く通用しない知的生命体の存在(の可能性)ということについても考えておいた方が良いだろう。例えば、1+1が13になるところに存している知的生命体の存在等。…「ヒトが生きている」ということの変逸が、ものを考える場合の何かを(として)あらわす(あらわれる)ことになるだろう。「その様には」、私は、考えていないからである。人間中心主義が、知的生命体としてのヒトの知能に帰順するとは、私は言わない。それは、現態からの出発に過ぎない。知というものを逸した知というもののその変逸(それもまた前と同義ではあるのだが)がコスモスと出るかカオスと出るか、戦場の生き物には(では)分からないだろう。…普通は(我々の一般常識的に考えて)分からない。(しかし)、「戦うことは悪ですか」と問われた場合、少なくともヒトとヒトとのコミュニケーション上の問題として、それを挑発と捉えるのは愚かである。つまり、そこへ来て、愚かさの概念は残っている。サタンは自らの内にあるものであり、「汝自身を知れ!」




手記6。(西暦2023年3月24日記述)


医学やそれに基づく医療技術の力は偉大である。私は自分の無能さに呆れるばかりである。これについて、一体私に何が出来るかというと、文章を書くことくらいである。クランケとして、医療上のデータを医療従事者の人々に提供することは出来るが、それが彼らにとって役立つものであるとは限らない。ちなみに、しかも、それは私Shinpei Sugiura(杉浦真平)の能動的行為によって為されるのではない。確かに、医療の現場における患者当人の自らの病気を治そうとする能動性に基づく(自発的)行為は、医療従事者に対する医療上のデータとしてカウントされているかもしれないが、それが努力偏重義務的観念に起因している時点で、データとしての妥当性がそれに存するかどうかには疑問符が付く。それは、もはや、「単元的」ではなく、「目的概化」している。戦場の生き物に関するデータはそれとして役に立たないというと語弊があるかもしれないが、彼らは(その意味で)「見せて」いる。彼らは、「目的概化」にまつわって、修正を要求している。つまり、(それは)、社会的な死荷重ということである。彼らのその「見せる」行為は、少なくとも医学的治療上、医療従事者にとって、役に立たないということである。スポーツ競技等の世界であれば、問題として別かもしれないが、(先述の)努力偏重義務的観念は自己破滅的に自己破壊をもたらすだけである。特に精神医学の世界で鑑みられる様に見受けられるが、医療従事者はそれをそれとして採用しないだろう。(よって)、それは、(彼らにおける)自虐でしかない。




手記7。(西暦2023年3月24日記述)


私はこれら文章を徒然なるままに書いている。また、私には言行不一致もある。私はそう(いう意味で)「完璧な」性格ではない。しかし、精神科医は、そこを私の精神病質として突いてくる、という側面も(精神医療には)ある様である。…「言葉に気を付けろ」とか「行動に気を付けろ」とかいったことであろう。……しかし、私見でも、確かに、出来の良い文章とそうでない文章というのは、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)が書いたものの内どちらもある様である(私が書いたものの内には適当にすらすらと書かれたものもあるということで(も)ある)。精神科医は故意ということを認めないのであろうか?という問いは愚問であろう。彼らは、患者が「無理をする」という表現をしばしば使うが、それが自覚意識的であろうが非自覚意識的であろうが、それは自己破壊衝動の産物であると考えるべきものの様である。例えば、「面白いことを言わなければならない心理の不健全さ」について語っている人は居るが、そこで、もちろん、私は、つまらないレクリエーションで会話をさせられる等の事を認めない。精神科医は、「そこを」患者を型にはめようとしてくるのであり、残念ながら、その様な医療行為は迷惑千万でありお断りである。そこのところの自立性は私は持ち合わせており、そこまで宗教の教義の如く干渉される筋合いは無い。ある程度型にはまることは(人々が)社会生活を送る上で重要かもしれないが、型にはめることはそうではない。つまり、能動の主体がクランケであれアルツトであれ、型にはめるという行為は、対象の「社会的な」社会構造化である(に過ぎない)。…それは、神と人々とを切り離す行いだろう。確かに自由には責任が伴うが、責任の無い自由も無ければ、責任のみの責任も無い。精神科医が、精神病患者がそうであることについて、責任を取るか?(精神医学の定義によれば)精神科医はその責任を取りたくても取れまい。彼ら精神科医にも自由意思(自由意志)がある限りにおいて、自由の概念は存するはずである。クランケとアルツトという関係において、精神科医だけが神と共にある「社会人」であり患者は神の無い「非社会人」であるなどということがあろうか。それでは精神科医が(そうであるにもかかわらず)人種差別主義者であるということになってしまう。そして、それは、科学者における科学的態度というものとは逆を為しているだろう。彼らは新規な科学的事実を無視するか?無視しない。そういうことである。




手記8。(西暦2023年3月25日記述)


自らの衝動をコントロールするのが下手なのは、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)の致命的な欠点である。それは、癖などと言えばまだ聞こえは良いが、物事における愚鈍なこだわりだったり、酷い場合は日常生活における何らかの支障だったりするだろう。脳内で自らを鈍化させるその「物語」は、おそらく唯名「統合失調」であらわされる。自己強化を含めて、それを何らかの形「に」昇華させることが出来れば良いが、悪魔の誘惑にはそう勝てるものではない。自分の中の悪魔と格闘するにおいて、虚無主義的な社会構造との闘争ということがある。社会は法廷ではなく、もし社会が法廷であるというのならば、(物理的な)法廷など必要あるまい。ナチスにおける虚無主義とは、アドルフ・ヒトラー一人のことではない。「だから」、ヒトラーは全てを破壊へと導いたのである。ヒトにおける憎悪を解放した挙句、ハーケンクロイツは戦場そのものであった。ハーケンクロイツの紋章は、ヒトにおける憎悪を(象徴もしくはそれを形而下へおろした形で)汎社会化したものであった。ナチス第三帝国において、社会の本質は戦場であった。BerlinがGermaniaと改称されて為されるアドルフ・ヒトラーの「千年帝国」の夢が具現化される限りでは良かったかもしれないが、現実はそうではなく、外部においては戦争、内部においては廃墟の製造という只それだけのものであった。外部性の内部化などと云えば聞こえは良いが、実際に行われていたのは、物理的にも非物理的にも国家国土を破壊するという只それだけのものであった。歴史的事実としてのナチスが行った事というのは、(逆説的に)内部性の外部化であり、そこでは、crash to createの繰り返しが現象している。ナチスのナチスである由縁が「それ」を招いたのである。もし、"Mein Kampf"(「わが闘争」)ではなく、「真に」外部性の内部化が執り行われていたらば、ヒトラー少年の夢も叶ったかもしれない。ヒトラーの行動原理は、人々を云わばないがしろにすることであった。人々が居るが故に、ナチスにおける虚無主義的なエネルギーによって、人々は疲弊し、廃墟の製造が招かれたのであった。…人々が居るが故に人々が疲弊する?それは、まさに、民主主義の本質(の様)ではないか?「二度とやるな」とは、ナチスが残した教訓であるが、歴史的事実の上に歴史的事実は積み重ねられ、もちろん、現代の「民主主義」社会も跡を引いている。歴史学者のE・H・カーは、「歴史は科学だ!」という様な内容のことを言っているが、ダイナミックな歴史のうねりの中で、「それ」は生き物の様に存在している。judgementの存在意義が「被される」場合、人が社会を形成する以上、そういうことではないか。




手記9。(西暦2023年3月26日記述)


ヒトにおける問題は、結局、人間関係のそれに帰着するという主張をする人間達も居るが、彼らにとっては、科学技術の進歩や流布そして社会制度の進展は努力偏重の産物でしかないという事である。彼らは、何かを勘違いしている。確かに、人間関係における成功は結婚という「ゴールイン」をはじめとしてヒトの幸せの一義かもしれない。しかし、「(手練手管によって)得られた」ものが、果たして、ヒトに幸せをもたらすものであろうか。支配の先の夢はそう甘いものではない。……「死を思え」とは、むしろ、ヒトラーに対する教訓ではなかったか。"Better watch yourself."と云っても彼には通じなかった様である。ちなみに、私は、精神医学上のそれの定義については殆ど知らないが、一人だけ「ヒトラーは演技性人格障害」と言った精神科医を知っている。

私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、おそらく、他人に比べて、差別心はあまり強くないが、偏見が強い。差別(discrimination)と偏見(prejudice)との違いは、自己攻撃(解釈により他己防衛)と自己防衛との違いと同義だろう。つまり、人間関係ということにおいて、偏見が私においてはものの何たるかであり第一義なのである。(私において)偏見は「そのように」採用されている。私という媒体において、もしくは、私を媒体として、偏見が取り去られる時、人間関係学も終わりを告げるだろう。具体的な人間関係という場合、私はヒトとヒトとのコミュニケーションにおける機微でそれを構築していくような人間だった。いわゆる「空気を読む」ということは、そういったことにおいて、最も私の得意とするところであった。しかし、ある時、それは人として間違っているのではないかということを思い、物事について(ある程度)考える様になった。精神科医は、ともかくも、精神医学を執り扱っている限りにおいて、そして私個人の利得と相まって、(その)人間関係学を終わらせたい(彼らにおいては、自分達が巻き込まれたくないという側面もあるだろう)。偏見は私の一部だろうが、私と人間関係学は同値ではない。その(「場合による」)故意を精神科医は認めない。




手記10。(西暦2023年3月27日記述)


「今を生きる」ということが、(文学的に)人にとってどういった意味を持つか。私は、もちろん、強制収容所の管理者ではない。しかし、そして、「死を思え」とは、ヒトラー少年に対する教訓ではなかったか。アドルフ・ヒトラーにおいては、大過去が目の前のものとして現象しており世界はバラバラである。彼はカオスを抱いていた。自己(同一性)を喪失した挙句、彼は不確定性をひたすら排除しようとした。対象における妥当性を是認するか是認せぬかという瀬戸際のところで、ヒトラーにおいては自己が是認の対象ではなかった。悪への自由と云えば聞こえは良いが、招かれたものは周知の通りである。「自由からの逃避」という場合、彼自身が不確定であった。悪というのはそういうものであり、ヒトラーは自分を見誤った。彼は自身を「総統」と呼称したのはそういうこともある。「総統」ではないが故に「総統」であるという、(その)虚無主義的な社会構造は、無政府主義的なヒトラー(個人)の崩壊過程と共にあった。基本艇に自分との戦いであり、まさに"Mein Kampf"(「わが闘争」)というわけである。…破壊衝動が内向きだとか破壊衝動が外向きだとか言ってもそれらのその意味内容は私には理解出来るが、(学術的な)専門用語としてどう採用されているのか分からぬ故、この段でのそれへの言及は差し控えたい。経済学で「限界的(marginal)」と云う場合、自分の能力と履き違えられた限界生産性自体が「実存する」という言い方は出来るが。




手記11。(西暦2023年3月28日記述)


面白いことに、日本の精神科医は非常に政治色が強い。彼らは、患者における(「そのような」)政治色は絶対に認めない。それが治療上の方便であれば良いが、そうではない。彼らは彼らの話をしているに過ぎない。彼らは、彼らの見解が万国共通だと思い込んでいる。まさに、「死者の奢り」である。例えば、日本人の精神科医と日本人以外の精神科医では、特定の対象における異なった見解というものもあるだろう。これは、もちろん、精神科医というカテゴリーだけにとどまらず、人種の違いということもあるだろう。極論するならば、「我々は特定のカテゴリーを作って『やって』いるから(自分達の認知領域という意味で)こちらへ来い」と「認知が歪んでいる」者を連れ去ろうとする精神科医かとも考えられる。(確かに)、これは、教育(や被教育)と洗脳との区別が付かない者に顕著である。"If I am brainwashed, I am brainwashed. I don't know."ということだが、"distrust and verify"とは、まさに、これに対する処方箋である。(その意味で)「今を生きて(は)いない」。

「やはり女性には愛が必要なのか?」という(場合の)ことについて、何故私はこれについて被害妄想に絡め取られ易いのか分からない。これが分からないのが私の病気の由縁なのだろう。恐怖心に対する否定的見解を述べておきながら、実際自らにおける恐怖心が強いということは、物事に興味が無いと云えばそれまでだが、愛というものを信じたくても信じられぬということなのだろう。しかし、私は既に愛に没入している。だから、(私においては)統合失調症という具象化が為されているということなのだろう。そして、それ自体が(自体的に)病気なのである。確かに、精神科医が言う通り、私の認知は歪んでいる。何故、こう、例えば、彼らからのメッセージを素直に受け取れないのだか分からない。傷つくことを恐れているから?だから、ヒトを信用しないことに自分を依拠している。上記の「~、(その意味で)『今を生きて(は)いない』。」ということ自体をdistrustすれば、自ずと答えは出るだろう。…私は、「その」確証が欲しいのである。それが馬鹿げたことであり自制すべきなのは理解している。只、慣用的に言えば、私は非常に憶病な人間である。最悪の状況を想定設定しそれを(それであると)確定させてしまえば(想定される)ダメージを短期的には最小限に抑えられる。しかし、それは、(中期的そして長期的には)自己を苛み蝕んでゆく。丁度、熱エネルギーによってタンパク質の組成が変化し、well doneとなるように。(その虚無主義的なものについて)「コロンブスの卵」を比喩として持ってくる必要は無い。それでは本末転倒である。アルゴリズム的思考が民主主義の雄であるとすれば、それは完全なアルゴリズムは存在しないということを示しているに過ぎない。スキゾフレニアという病気に真の治療がもたらされる時、真の民主主義も為されるかもしれない。




手記12。(西暦2023年3月29日記述)


「女性だから駄目」というのは、「女性を(だから)好き」というのと同義であろう。女性差別は女性崇拝と、コインの裏表、表裏一体の関係である。私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、「女集団を意識している」が、その自覚があるが故に、(その)セクシストの様に、女性の女性性に捕らわれる事は無い。セクシストでない女性は、異性にその様な目で自身が女性であることを第一義としては見られたくないはずである。つまり、彼女ら普通の女性達は、男性に対して、身をかわす。彼女らは、「女集団を意識している」。ヒトのメスは自らと同質なものを求めるが故、自覚意識的に「女集団を意識している」ヒトのオスと、その様な関係を、ヒトとして取り結ぶ。もちろん、そこにあるのは、パートナー関係ではない。セクシストの女性は、「男集団を意識している」が、同じく「男集団を意識している」セクシストの男性に対して、ヒトのメスは自らと同質なものを求めるが故、気を引き寄せつける様な行動を取る。セクシストの男性は、「男集団を意識している」が、(その)自覚意識のある個体は、自らの男性の男性性に捕らわれることは無い。彼ら彼女らにおいては、自身が、ヒトであること以前に、自身の性自認が第一義として来る。「セクシスト」という、彼ら彼女らに対する呼称は、決してセックスの行為にかまける(だけの)生き物という意味合いを持たせているのではない。性格という定義の精神医学上の位置付けについては私は知らぬが、私は彼らの素行を性格などという一連の定義に比準させる気は無い。彼らは、セクシストとしての(その)社会性を、特定のカテゴリー内に持ち込んだ、という事に過ぎない。欧米由来の男性原理的なものと云われるその主義は、生殖の本能にまつわるご都合主義でしかなかった。仮にそれが近似的なものであれ、社会が言語であるという場合、それは動態的であり、その「持ち込み」「持ち込ませ」が、自体的に社会(構造)的である。欧米人の言語使用性の高さは、虚無主義的な社会構造との闘争に基づくものであり、毒をもって毒を制すということにおいて、それは、例えば、音楽的ですらある。そこへ来て、表現の無い調べは、生物(学)的である。かつて、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士は、「貴方は何故生まれたのか?」と問われ、「自分の両親が性交したからだ」と答えたそうだが、そういったことを考えると、ヒトは社会から生物として生まれたのではないか?残念ながら、それは、私にとって少々辛いところの、虚無主義的な欲動でしかないが、(それは個人主義的であり)、セックスが最上のコミュニケーションと云われる由縁を考えると、そういうことだろう。男性は外へ出て働き、女性は家庭を守る、ということがそもそも是認されないことになる。男性原理や女性原理といったことが、そもそもの矛盾なのである。ジェンダーイクオリティといったものは、存在し得ないだろう。逆説的に、それが真の(に)ジェンダーイクオリティなのである。




手記13,14。(西暦2023年3月31日記述、西暦2023年4月3日加筆)


日本人ユダヤ人同起源説などということが云われているが、日本人の行動原理は基本的に嫉妬である。その意味でユダヤ人は伝統(主義)的である。種の起源という場合、ユダヤ人における血統維持において、それは日本人における人民総奴隷化と、コインの裏表、表裏一体の関係である。ヒトの集団の二義性ということにおいて、それはユダヤ人の行動原理や神概念と関係しているだろう。日本人の嫉妬(という行動原理)は、ヒトがヒトに帰順するにおける媒介変数に過ぎない。我々日本人においては、罪と罰の具象化が為されている。もし、我々が、その具現体であれば、救われ様が無いが、我々日本人(に)は先逸的に血統維持が為されており、例えば、我々が外界と隔てられた島国の住人であるということもその一つである。それが牢獄であったかどうかは私は知らぬ。しかし、少なくとも、歴史上はそうではない。その点、ユダヤ人が統合(regenerate)の世界に生きているのならば、日本人は分裂(degenerate)の世界に生きている。種の保存という場合、それはregenerateである。ヒトの集団の二義性ということにおいて、それは日本人の行動原理や皇統維持概念と関係しているだろう。その、regenerationとdegenerationの二面性が、(特には天皇制ということにまつわって)日本人において無尽蔵のエネルギーを生み出すのである。太平洋戦争は、良くも悪くも、それの具象化が為された一例である。

精神科医もそうだが、自分達の話をしているに過ぎない人々は、自らを牛乳商品の製造過程における様に均質化している。これは(特定の)対象の同質化とは違う。対象が対象として存在する時点で、それは均質化ではなく同質化である。例えば、不等号の問題を考えた場合、A<Bという(不等)式において、均質化においては式が項と化している。ここでは、比較の原則において、不等号の存在が、Aという項とBという項の絶対を示しているはずである。ところが、式が項と化している場合、そこでは、相対が絶対と化している。そこでは、(均質であるが故に)Aという項の絶対性とBという項の絶対性が捨象されている。(自己)同一性の不認識という問題がここで立ち上がる。「違うが故に同じ」全体主義を、三島由紀夫氏は「戦時下における」という内容で表現した。もちろん、そのwell doneが出来上がったのは、実際、投下された二発の原子爆弾その他で出来上がった焦土としてである。既に為されている対象が、(自己)同一性として存在する場合、(世界は)分裂している。それは、アドルフ・ヒトラーの世界であり、未来は確約されている。その確約された未来というdegenerationが、人民総奴隷化が(は)避けられ「同じが故に違う」個人主義が為されるという意味で、regenerarionを招くのである。




手記15。(西暦2023年4月8日記述、西暦2023年4月11日加筆)


目の前の現実を信じられなくなったら終わりである。物理的に近くに存する他者が盲目の闘将と化すのは時間の問題である。そこには、物事における、因果関係は存在せず相関関係は存在する。…私が盲目?私は、「予め」世界を準備している訳では決して無い。もちろん、それは、「どれが現実なのか」という形容詞の世界ではなく、「どう現実なのか」という副詞の世界だろう。社会が言語であるという場合、はじめに言葉があった、ということだろう。「言葉」という表現が採られる場合、その多言語的多義性は「ただそれだけで」詩文学的である。言葉の世界に生きている人々が、文学である世界に生きているか文学でない世界に生きているかというのは、問いとして成り立たないだろう。「文学」だとか「問い」だとかいったものは、全て、過去完了形のメタファーである。

差し迫ったindifferenceの具象化が為されるには、例えば、経済学におけるindifference curve(無差別曲線)は、数学的手法によっては事は為され得ないという事において、事を単純化し過ぎているということであり、それは物事における蓋然性を滅却した数学的思考の副産物である。過去、哲学者達が視覚というものをどう扱ってきたかという問題があるらしいが、三島由紀夫氏が「楯の会」という唯名でサークルを組んでいたのは、(「見せている」のと「見られる」のがもちろん違うということありき)、(「本物になると考えるだけになる哲学者のその思考」を)「蓋然性」という言葉では表現することが出来なかったからではないか。

「es warという言葉を理解する様になる」と云った(言った)ニーチェは、皮肉にも、三島由紀夫氏の切腹(自殺?)を予言していたのではないか?具体的な法という場合、順法意識というものが付いてまわる。それは、具体的な法を制定する場合であろうが、具体的に法を違反する場合であろうが、同じである。ここで、「意識自体が無い」ということを、「順法意識」ということにまつわって考える場合、「法は社会の反映である」上で、社会概としての自己が死の表象として存在することになる。「内逸」という言葉を英語の"jurisprudence"という単語に訳出する場合、社会は「そう」現象する。カルヴァンやリシリューや果てはヒトラーやスターリンに至るまで、サイコパス的な具合にまつわる「それ」を、人々は殺し合いもしくは戦争と呼ぶ。

三島由紀夫氏は、「esの無い人」と呼ばれていたらしいが、彼の認知領域は死であった。その意味で、彼の行いは自殺ではない。彼は死ぬべくして死んだのである。しかし、そのこともまた彼(という死)の表象でしかない。故平岡公威氏と三島由紀夫氏は別個の存在ということである。神風特攻隊員が敵陣に頭から突っ込み爆発死するその瞬間の生命の輝きを、人々は見るのである。「あなたが死に携わっているのだ」ということを人々は知るべきだろう。




手記16。(西暦2023年4月11日記述)


ちょっと現実的な話。精神科医の患者私Shinpei Sugiura(杉浦真平)に関する扱いというのは、基本的に、まず、均質化である。私が精神科医に対して否定的見解を抱いている限りにおいて、彼らも私に対して否定的見解を抱く(というポーズをとる)。つまり、彼らは、患者である私を診察しない。しかし、彼らは、私が、彼らをコミュニケーションの対象としている限りにおいて、私とコミュニケーションを取る。つまり、彼らは、いくらでも私に対して診察室内で嘘を吐くし、場合により私を侮辱したり、私に対して危害を特定の医薬品の投薬や特定の暴力的手段を用いていくらでも加えてきたりする。彼らは、もちろん、法治圏外ではない。私の過去の経験から言うと、彼らは殺人罪では捕まっても傷害罪では捕まらないらしいが、ひたすら私刑という形で患者である私を裁こうとする。ここで、罪の重さという概念が出てくる。しかし、残念ながら、それが為されるのは法廷における公判によってのみである。先述の通り、社会が法廷であるというのならば、具体的な物理的法廷など必要無い。それが為されるのは、ナチス支配下におけるドイツの(様な)社会においてのみである。法律Aと法律Aではない法律Bが存在するとして、とある特定の個人が法律Aに違反したからといって無条件に法律Bにも違反しているという事にはならない。法廷が存在するという法Xが違反されている場合において、法廷が存在しないという法Yが違反されている事になるが、それは無条件降伏の世界である。
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