私が現在服薬している抗精神病薬エビリファイのジェネリックの医薬品アリピプラゾールは、確かに使い方によっては生活の総体面で良い効能を私に対して及ぼすものですが、抗精神病薬全般については以下の事が言えます。それは、ヒトもしくはヒトの脳をアカ化(赤化)させるものである、ということです。それは、「せきか」ですから、そういう語呂合わせによっても考えることができるものであって、例えば肉体の筋肉各所がガチガチに凝りだすわけです。まさに「言葉の世界に生きている」者の為に在る物かもしれません。
「レッドパージ」(「赤狩り」)とまでは個人的に言いたくありませんが、アカデミックという場合、その内実となるものの礎を考えると、「アカ」であるということが言えるでしょう。アカデミズムについても同じです。人的資本へのいたずらな抑留を表明する者を非難することは出来ません、何故ならば、それは単なる対人スキルであるところの非本位的な嘘であるからです。これが非本位的な嘘ではなく本位的な嘘である場合、それは、コミュニケーションに特化されたオペレーティングシステムが「入っている」とでも形容され得るものかもしれません。……「人間関係を学ぶ」という場合、それは前者におけることとして考えられるでしょう。
高い教育によって培われたものを悪質と見做し叩き出すというのであれば、そもそも教育を受ける義務も無いでしょう。ヒトは家畜ではなく、その肉は食われる為にあるのではありません。余談ですが、そもそも肉を食わなければ問題は成立しません。ヒトに理性や良識があるのであれば、このようなことにおいて自制は為されるべき(もの)でしょう。
日本の社会にも関係あることなので言わせてもらいますけど、米国の国立アレルギー・感染症研究所所長のアンソニー・ファウチ医師が、米国のニュース番組で、COVID-19の処理について、「常識で」、「常識に則って」、さらには、「医師になるべく勉強している学生が影響を受けることは無い」、みたいなことをおっしゃってました。
この場合、防衛という観点からして常識は大切でしょうが、そもそも常識を逸する事態に我々は現在体面しており、常識を基幹としたものの捉え方だけで問題を解決できれば誰も苦労しません。
そして、ファウチ医師がおっしゃるような少なくとも見解からしての医学生の取り扱いが妥当・適例・必至だというのであれば、義務教育において医学を必修化してもらわねばなりません。現実的に考えて、それは各人の知力や労力の問題で不可能であり、仮に可能であるとしても莫大なコストが掛かります、し、もしそうなったらば医療技術が社会資本ではなくなります。それこそ医療社団法人ではなく医療法人社団を作らなければならなくなるというあたりで、医学や医療技術が特権階級の奢侈品へと堕ちます。
ナチスの悪夢はすぐそこにあります。赤い欲望が欲望を呼ぶ破滅を避ける為には。
例えば、証券会社の社員は自分が所属する証券会社の儲けを第一義としてお客に株取引を持ち掛けます。少し前にネット上で「コンバージドインフラストラクチャー」という少々長い唯名を見ましたし、かつてテスラのイーロン・マスク氏が「即時的(短期的)に金を儲けたいだけの人間はテスラの株を買わないで欲しい!」とおっしゃってましたけど、証券会社の社員に好まれないような株式への対し方のヒトもいらっしゃるわけです、が、証券会社は儲けたいので例えば新聞に「そういって」煽るような文言を載せるということを行ったりするわけです。企業というのは利潤が無ければ成り立たないので自らの利潤を最大化させようとします。これが企業というものによる社会の利潤の最適化であると説明する経済学者の先生もいらっしゃいますが、それは社会の利潤の最大化であって社会の利潤の最適化ではないと私は少なくともこの場では説明します。
そして、それは、民主主義ではなく自己主義もしくは自己本位主義であって、資本主義がどう為されているかというと後者ではなく前者によってなのですね。全てのヒトがヒトラー総統と化し指令し合うという社会がどれだけ破滅を地でイっているか健常で普通の感覚を持ったヒトには容易にお分かりになられるかと思います。私は、過去、引きこもりがちな古典的アカデミズムに魅力を感じていました。そこでは、自己の能力の限界生産性自体が自己の能力と履き違えられるというおぞましいことが起こります。古い資本主義下では環境問題など度外視されてしまいます。それぞれの社会の構成員が大本営発表を行う先にあるものは世の破滅でしょう。そういうものは高等学校で受ける教育までで修了しているはずです。今はちょっと事情が違うかもしれませんけど、何故日本の大学生が勉強しないのかということが一時言われていましたが、それともちろんこの事は関係があります。
個人投資家であろうが機関投資家であろうが、リスクを回避する為に投資を行うもしくは投資を行わないという行動を取るわけであり、従来の経済学に拠る「リスクを回避する為に投資を控える」とか「リスクを採って投資を行う」などという発想もしくはものの見方は総じてリスクを取っています。
昔の人、とは言っても、日本において昭和が終わるあたりまでに義務教育を完了している人たちのことですが、彼らは随分と単純な事をそれが正解であるとして教えられていたのではないかという感慨を私は拭い去ることが出来ません。三島由紀夫氏ですら朴とつと単純なことを言います。もちろん故平岡公威氏と三島由紀夫氏は別個の存在として扱われるべき者ということでしょうけど。死、そう教えた。三島由紀夫の名前は残っている。