頭を使う必要の無い事に頭を使っていると、頭は確実に悪くなります。「必要は発明の母」という有名な諺があります。認識の対象として為され得ないものが認識の対象として見なされることはありません。ヒトは完全ではありません。常識の概念の存在も有ります。「自分だけこんな不幸な目に遭って、不公平だ!」ということを云うヒトが自らの理不尽さに義憤を覚えるのならば、それは一種のドーナツ化現象でしょう。「罪を憎んで人を憎まず」というのは正論でしょう。全ての人間が善良である訳ではありません。悪人ヨーゼフ・ゲッベルスはひたすらアドルフ・ヒトラーをtext化しました。これは私見ですが、おそらくヒトラーは最初から分かっていたでしょう。ゲッベルスはヒトラーを、食い物にして、「消した」のであるということです。
社会イコール法廷ではなく、技術立国としてのアメリカ以外の側面において、例えば社会工学上それは必要であるのだろうか?という問いは、ヒトラーの所業です。バケツの製造にその存在が象されるような人々の存在があろうか?という解釈は、エヴァ・ブラウンとの結婚を法曹がヒトラーに対して認めるという形が取られたことによって、(法廷は)「総統」を自称したヒトラーに単なる「総統」を明け渡しませんでした。
子供の内は男の子女の子キャッキャウフフも構わないかもしれませんが、男は大人になったらば女の正体に気付くべきでしょう。子供には学校が必要であるというのは、子供の認識における学校の存在というのはその様に大切なものであるということです。これは、特に女イコール大切な存在という意味合いではありません。女性とてそういう目で男性に見られるのは嫌でしょう。それはレイプとほぼ同義であるからして、セックスとレイプの区別が付かないセクシスト御用達のものであるということです。アクションとしてのセックスがそれです。セックスはファッションです。セックス程権威主義に塗れたものは無いということでしょう。どうあれ、セックスは罪には違いないということです。ヒトは、あらゆる性交において、ファッションとしてのセックスとアクションとしてのセックスの区別を付けるところから始めたのではないか、と、は、考えられます。前者においてはジェンダーという形で当該の当該性が現れており、後者においては「子供はかけがえのないもの」ということが成り立つでしょう。性交はあくまで子供をつくる(ための)行為であるということです。「子供はかけがえのないもの」でなければ、ジェンダーも要らないでしょう。それこそ単細胞生物であり、単細胞生物の存在意義はアクションとしてのセックス(そのもの)であり、自虐当該であるということです。
抗精神病薬の薬効の強さについては、精神科医は分かり切っているでしょう。薬効というのは、飲むとどうなるか、云々、ということです。例えば「ネットに『文章を書い』てupする」という行為における自己の非コントロール性について、文章を書くという行為自体や書かれた文章の内容にはその性質からして上記薬効が関与し得ませんが、そもそもの動機が同薬物によって捻出されることは明白です。というか、単純に飲めば分かります。以下を行っているのが、精神科医であるということなのか、純然たるテロリストの類のものによるものなのか、私は知りませんが、そのような連中はこれを否定するために必死に動機(の存在)を理由後付けする為の鉄砲玉をぶつけてくるものであるということです。
アメリカのビジネスマンで、社会主義はヒトビトの労働意欲を(結果的に)削ぐと言っている人が居ますが、競争原理(で成り立つ社会)に資本主義を伝する能力があるでしょうか?民主主義は魅力的です。アメリカが、中後進国のヒトビトに、「自分達の」民主主義の魅力を認めさせる為には、資本主義の体制が必要であるという事を理解させねばならないということでしょう。それが民主主義の(に対する)教育として成り立つかどうかは、当該の中後進国のヒトビトによるでしょう。現に、武具を供与されているウクライナは隣国との戦争という形でそれを現象させています(これはロシアの言い分に偏っていることを私は認めます)。しかし、それこそが民主主義の本質ではないでしょうか?私は、第三世界の人々が、第三帝国ならぬ第三文明を創ってくれることを切に願っています。……「男性はその生物学的素因からして女性を辱めるように出来ている」という主張をしている女性達が、例えばフランスに確かに居るようです。男性が本来的に邪魔だというのであれば、その様な女性たちは、男性の居ないところへ行ってもらうしかありません。私個人は、そういう女性達のことを、上記ではある程度否定的に書いていますが、無視するつもりはありません。どこかアマゾネスみたいな集団を作ってもらえば良いのでは?と思います。それかヒトのオスを死滅させてヒトのメスだけの人間社会を作るかです。女性の中には、これを「離婚」である云々と捉える方々もいらっしゃる様ですが、その様な女性達は最初から男性とは殺し合いのはずです。彼女らはセクシストの女性であり、「(別に男性に頼まれてもいないのに)嫌々ながら男に対して股を開かなければならない性自認」の保持者であるということです。「必要は発明の母」ということと関して、社会不安に駆られ易いのが女性であり、科学的態度というのは女性由来のものである(「理系女子」)、と、私は別所で書きましたが、おそらく、人間社会ということに関して、男性には女性が必要であるということからして男性だけでは殺し合いになるでしょうが、女性だけでは殺し合いにならず上手い社会運営が為されることになるかもしれません。アラブ圏の女性で、「それが女性の幸せなの!」と男性との結婚を女性に勧める女性がいらっしゃったりしますが、それに被害感情を付随させるかどうかは本人の器量の問題でしょう。集団への帰属ということに関して、現在、彼女らは良かれ悪しかれ社会的にあぶり出されているということです。社会的にカテゴライズされる事で、それが(それで)吉と出るか凶と出るかは歴史が証明するでしょう。(西暦2022年12月31日16時19分記載、西暦2023年1月4日17時40分加筆改変、西暦2023年1月5日15時59分加筆改変)
当該人物において無視するべきものを無視する能力が低い者が(無理に)その客体を無視しようとすると、その者にはそれなりに負担が掛かるだろう。別に、だから私は、当該人物が当該人物において無視するべきものを有視することを無視するつもりは無い。
程度問題ということで個々人の防衛力には限界があるということだろうが、それは世界の自浄作用でもある。「先天的に」それを為しているのは英国である。「後天的に」それを為そうとしているのは日本である(竹やりで空を突く真似を人民にさせながらB29を落とそうとしたのは象徴的である)。ドイツには「後進性の優位」が「先天的に」光っている。「後進性の優位」を「後天的に」為しているのは中国である。
私はここでロシアを非難しているのではない。ロシアの白人文化は極めてキリスト教的である。それは、チャイコフスキーの「白鳥の湖」という曲目や「マトリョーシカ」といった文化財によって象徴されている。
(西暦2023年1月16日11時43分記載)
"paper tiger"というのはビューロークラッツの最たるものという意味であろうが、例えば戦争において、最前線の兵士達も指揮官達も全て現場に生きている。その意味で、「現場主義」というのはナンセンスである。現場をイデオローグ化した瞬間に訪れるのは無政府主義である。指揮系統において命令を出す機構を主義化したらばどうなるのか想像に難くない。それはまさにナチスとその崩壊過程の世界だろう。
戦争は皆死ぬということである。スターリンやチャーチルやルーズベルトが「生きている」様に見えるか?私には、あの三人が戦勝国の筆頭として映っているあの写真は、破壊されて分裂した人間のそれにしか見えない。あの現場で、ヨシフ・スターリンは、ウィンストン・チャーチルに対して、「…何故ここに居るのかね?」と言ったそうだが、それはbadだとかbadでないとかそういった事ではなく、只「終わっていた」現在完了形の世界のものだったのだろうと思われる。
ちなみに、ヒトラーは「後(のち)」の(過去完了形の)生き物である。「世界は壊れ続けて来た」という哲学者による言があるが、そういうことである。その意味では、やはり、ヒトラーは上記三者とはズレている。上記三者においては世界はあくまでも繋がっているが、彼においては大過去が目の前のものとして現象しており世界はバラバラである。
ナチスにおける虚無主義とは、アドルフ・ヒトラー一個人のことではない。「だから」、ヒトラーは、全てを破壊へと導いたのである。それはおそらく故意のものであった。これがお前らが二千年かけて作り上げた糞の様な文明かと(彼はライフラインまでをも破壊しようとした)。彼は、時刻を二千年前まで戻し、「それの」千年帝国を作りたかった。「良き者達が皆死んだ」「後の祭り」を彼は夢見ていた。私はヒトラーが精神分裂病であったなどという無知蒙昧無根拠な事を言うつもりは無いが、「そう」いうことではないか?ヒトラーの破壊衝動をナチス第三帝国は上手く止揚してくれた。その意味ではナチス第三帝国はヒトラーにとって適合のものであった。ヒトラーは自分を見誤った。彼が「総統」と自己を呼称したのは、そういうこともある。
(西暦2023年1月13日16時24分54秒記載、西暦2023年1月15日18時39分加筆改変)
単なる想像ということでもそうだが、情報が足りなくて考えても答えの出ない事について、その様に脳内で遂行しても、全く徒労に終わるということは自明である。その点において、物事の羅列というものは、私において、ある種の重大な意味を持っている。これは考えるということの表象である。結果として、「そう」物事は現象する(例えば、カードの類で出るものを見よ)。
「ある」断定において、私はそれを操作しようと能動しているのではない。だから、仮定というものの意義を考えると、私はそれを嫌う。運(luck)のパラメータというのは存在するのではないかと私は考える。
(西暦2023年1月18日14時10分記載)
人間の社会的営みが終焉を迎えるに当って、社会的定義の乱発がものを言う情勢下では、人々における科学技術の信奉度は増してゆくだろう。ここで言う社会的営みの終焉というのは、他人の死ではない。…西欧の老人で、「(書物は)聖書一冊あれば十分だ」と言っていた人が居たが、聖書が火で燃やされたら終わりだろう。
別に何らかに捕食されるわけでもないのに、「このままでは人間が居なくなるぞ!」というセリフによる象徴は、人類の種の保存におけるある種のダイナミズムをそれ自体自体的に転化させている。私は、(時に暗喩の)メタファーが、それが世界を「特に」現象させているとは考えられないので、例えばこれを「光の波長の様な」だとか表現して妥当であるのか理解できない。
問題は、それをキャンセルカルチャーと捉えるか捉えないかということである。
人類の進化を認めないという連中において、その価値承認を私は求めていない。そういった人たちが、自分と関係が無いというと語弊があるが、そんな人たちはどうでもいいという表現が適切だろう。
養老孟司氏が、「SDGSなんて大嘘」とおっしゃっている。(社会的)常識が、人々のステートをダウングレードさせるのか。確かに、(社会的)常識というのは、麻薬の様な役割を担う。それは、人々に依存症を喚起させしめ、欲望を一義として扱わせなくする。例えば、「環境の事を考える」というのは、皮肉にもこれとは逆であり、それは義化された欲望の産物である。そこには人間中心主義が光っている。もちろん、地球環境というのは、ヒトが絶滅しようが全くそれを関知しないものであって、ヒトが生きる上でということが議題として上ってくる。只、(Before Christの)悲惨とも云える生物の進化過程を繰り返す必要は無いのであって、それはこの二千年で人類が成し遂げた生物としての進化を(で)鑑みれば一目瞭然である。
(西暦2023年1月17日19時55分記載、西暦2023年1月21日14時45分加筆改変)
イスラエルの右派政党「リクード」に所属するベンジャミン・ネタニヤフ首相の政権に対する、イスラエルの一般市民による、デモ行進が行われているそうである。これは、ネタニヤフ氏のUAE等一部の国を除いたパレスチナを含むアラブ諸国に対する強硬姿勢を(で)鑑みると、イスラエル国家総体を慮っているネタニヤフ氏の政治力についてもプラスになる事だろうと考えられる。基本的に、人々は、戦争が勃発したり核ミサイルが飛んで世界が滅びることは望んでいないはずである。つまり、政治力学的に上記の様な事が言えるということであると考えられる。
挑発行為とは逆の効能がある行為は、一見しては人々の恐怖を煽るものと捉えられるかもしれない。何故全てがそうなっているのかと。…ヒトが一人で生きているのではないから、どの様な心理学的水路付けが執り行われるのか考えられたい。
そういった意味では、日本における今年の大学入学共通テストにおける警察の警備の仕方は、新聞記事によると「見せる警備」ということで、実に理に適ったものであると考えられる。要は、それに至るどの様な経緯があれ、(犯行)現場において事を実行させなければ良いということである。
ヒトラーが捕らえ様の無い悪人として「列聖」されているのは、彼の中に、おそらく記憶の改変を伴う、憎しみの増幅装置の様な感情機構があったからだろう。現在では、これを、仮初めにも、味わうことのできる薬物(恐ろしいことにそれは医薬品として少なくとも日本国においては認可されている)もあるが、そこから学ぶことは非常に少ない。
私は、「単元的」奴隷であっても良いが、人民の総奴隷化に協力するつもりは無い。ちなみに、「単元的」と「目的概化」とは違う。自分の何たるかを他人に押さえさせるなというのは人間関係の基本だろうが、明確に味方であると認知できる相手に対してはそれも有りだろう。「味方」とは、力関係の上下にまつわるところのもののそれである。「力」とは、「目的概化」を排除する能力のことである。
(西暦2023年1月14日15時43分記載、西暦2023年1月14日16時23分加筆改変、西暦2023年1月15日18時15分加筆改変)