本日西暦2020年9月1日11時~12時頃、私はとある騒音の発生源(視覚情報)とそれによって発生された(であろう)騒音を目の当たりにしたということがあった。別の機会にそれと同じような騒音だけを聞かされたということがあったがその騒音が今回見参された騒音の発生源と同じ発生源によって発生されたものである保証は何処にも無い。また、今回見参された騒音の発生源によって他の異なる多くの場合は騒音である聴覚情報が被害者であるこちらに与えられるという可能性がある。
「あるのわかり」が分かる者には、「わかりのあり」が(も)分かるであろう。ところで、「わかり」とは何だろうか。例えば、英語の動詞でguessとrecognizeとunderstandでは意味が違うということがある。ニュアンスとしては、日本語の「分かり」に近いのは中者もしくは後者であろう。しかし、being understoodなどと考え出した場合、事情は複雑になってくる。……「性を利用した暴力」と「性暴力」は違う。男性が性暴力に遭う場合、(その)男性は被害者とは見なされづらいが、確実に性を利用した暴力の被害者ではあるだろう。現代日本の様な社会において、男性は女性を敵と見なした方が賢明だろう。その方が女性にとっても都合が良いだろう。女の子供を持つ女性の「自分の娘には経済的に自立することをひたすら叩き込んだ」というのは、女性が男性と比してやはり社会学的にも生物学的にも弱いということを鑑みると、(結果論として)正しい。女性はそういう方向を目指すべきであるということである。デリカシーの問題と言ってしまって妥当であるかどうか断言できないが、男性は「そう」女性と関係すべきであるということである。さもすれば、男性が一人のまともな女性を選ぶ、という、男性における行為、にも、妥当性が見出されることになるだろう。私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、「社会の発展とはメスの防衛である」と考えているが、この説はそういう意味である。(特に現代日本の様な社会において)社会の中心に居るのは男性ではなく女性であろう。ヒトのメスだけで上手く社会を作ることはできるかもしれないが、ヒトのオスだけで上手く社会を作ることはできないだろう(女性の存在が内部的にも外部的にも全く無い場合ということ)。
冨野由悠季監督のアニメ作品「機動戦士Zガンダム」に登場するレコア・ロンドというキャラのセリフに、「男は女を辱めるか、利用することしか知らない!」、というのがある。私は一人一人の女性に声を大にして言いたい。ヒトのオスというのは(生物学的に)そういう生き物である。それは、もはや、おぞましい「かわいがり」の世界である。もし、自らがそのまま女性として生きたいのならば、男に「そういう」依存をするな、と。愛と情は違う。
私には、新実南吉氏を卑下するつもりは毛頭無いが、例えば、「ごんぎつね」の物語を読解するとなると、狐の行動も程度問題によるということになるだろう。「楽になるだろうから殺してやった」はさすがに普遍的には通用しない。狐を殺してしまった猟師の行動は、当該的に(その)物語の終焉を示して(説明して)いる。ヒト以外の動物には、死の概念が無いので、その残虐さには際限が無い。ヒトは、死の概念を持っているので、その限りではない。ヒトに自らが考え付かない事を行う素地があるだろうか?表象的には、家畜の肉を喜んで食らうヒトの方が他の動物より残虐だと考えられるかもしれないが、そういう事ではないだろう。