今でもそうだが、私は全く集中して努力が出来ない。私は集中力などという概念を信じていないので、これは医学的な問題であると認識している。おそらくこの認識は間違っていない。現に、精神科医が現在処方している医薬品で劇的に「症状」は良くなっている。……対象を蓋然的に捉えること(の危険性)について警鐘を鳴らしているヒト達も居るが、私は彼らのように例えば母国語の学習能力を否定するということは無い。
ポータルネタということでどうしても自分のhistoireが気になるヒトのシミュレーションということであれば。私が卒業した上智大学という大学は、今はどうだか知らないが当時は入試で法や経済の「一般的な」学部を除いて殆どの学部学科において面接の二次試験を行っていた。上智大学に多く居る学生のヒトって、「無駄な知識派」ではなくて「無駄に知識派」みたいな。例えば、図書館の質や規模(基本的な(に)蔵書数)だって早稲田や慶應義塾には適わないでしょ?結局competitionでも「(上智大学の中でも)極めて高い言語能力を持つ~」、でしょ?
ところで、竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ8のヒト達が「善政を敷きたい」というのには納得がいく。しかし、私はタイプ8のヒト達のお眼鏡に適う上手い行動を取れない、というか、そのように上手く自分の行動を(「現象的に」)制御することが出来ない。
fairな競争ということについて、私は認識を間違えていた。「自分のことばかり考えている」ということがどういうことなのか私は最近知った。自分の都合や保身ということに認識を絡め取られて、私はまさに未熟であった。……いたずらにヒトが形成する社会は戦場であるという認識を植え付けられて本末転倒足る必要は無いが、「自分で」、ということがどういうことなのか、主体性を確保しておく必要があるだろう。
ところで、
まず、竜頭万里子さんと杉浦真平との違いについて説明しておきますね。
竜頭万里子さんはおそらく何でもエニアグラムで説明「できる」と考えているヒトです。
杉浦真平「あの人の獲物を狩る様なお顔はタイプ8的とでも形容されるものかもしれないが」
これでお分かり頂けるでしょう。
……タイプ8における「タイプ2の様な善い人間であらねばならないという意識は無い」というものがどういったものであるかということは一考される余地があるでしょう。あくまでも竜頭万里子さんという一つの他存在から見ての解釈逸話だということでしょうが(竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ8の成長の方向にはタイプ2がある。……特定のA氏と特定のB氏は別人であろう。……竜頭万里子さんは、タイプ8の特性について、成長の方向へと進んでも態度が大きいところは変わらない云々と述べておられたが、「性のパートナーを意識する」タイプ8、これについて、竜頭万里子さんの言とは逆に私Shinpei Sugiura(杉浦真平)はタイプ8同士では上手くやれると解釈している。というのは、タイプ8におけるタイプ2の方向への成長というのは「そういうこと」であるということである。人と人とが協力し合う、そうして生きていく、「それが」ということである。「それにおいて」あらわれることになるものが、少なくともタイプ8の場合、「誰もが抱えている闇」等々と表現する作家の先生もいらっしゃるが、人間性と呼ばれるものであり得るということではないかと考えられる。)、竜頭万里子さん曰く「自分が法(律)であるかのように振る舞う」、それがタイプ8。ちなみに、タイプ7w8は、例えば、「私は医師など信じない、私は医師がそれが事実であるとして提示するものをそのまま鵜呑みにして受け取るということは無い。悪医師共と相対するには死を選ぶしかない。医薬品の服薬は患者の患者による患者のためのツール、精神科医の患者における被投薬の実績を作らせるな、奴らはいざという時それを使う為に狙ってる。」とでもいったところでしょうか。タイプ8が「お前らは私の言うことを聞いていればいいんだ!」だったら、タイプ7w8は「お前らは(現状認識の正確さにおいて)頭を使っていない!」、だそうですが、タイプ7w8は「アンタやられちゃってるよ~」と(現状認識の正確さについて)教えてくれ(てい)るものであるということではないでしょうか。詳しくは下記参照。
で、ちょっと語らせて下さい。
タイプ1とタイプ2w1について。
タイプ1には、現状肯定型というか、そう世界に対して肯定的な雰囲気を出しているヒトが多い。これは(おそらくタイプ2w1の)アグレッシヴなマンガ的現状突っ込みとでも呼ばれるものとは違う、それは多くの場合「非本位」性を伴う。例えば、「白い壁を黒いと言え」とか「『カラスは白い』と言え」とかいった命令にそれは嘘だといって不服従するのは典型的な2w1の特徴。ちなみに、私Shinpei Suigura(杉浦真平)はタイプ4w3だが、上記の様な命令に従う場合、それは「その様に『命令された』後」の自己決定なので特に苦にはならない。責任を取るのは命令者であろう。そうでなければ、命令者と被命令者という関係に(で)順ずる、指揮系統が為っていないということであろう。つまり被命令者が命令者に従う意義はその場合無くなる。私Shinpei Suigura(杉浦真平)において、命令一般には従うものであるという認識があるわけではないが、その様な命令には従ったところで何ら不利益は無くまた物事の道理への違反は無いものであり、この様な命令に対して抵抗を感じるということはまず無い。そして、(上記)被命令者が命令者に従う意義が無い場合でも命令者が被命令者に対して命令しようとする場合、それは殺人の現場である。これを為すのはタイプ7w8やタイプ8という群にカテゴライズされる人々である。タイプ2w1の「非本位」性はあくまでも「本位」的である。例えば、タイプ2w1の「非本位」性は(「本位」的に)特定のターゲットに対する集団ストーカーに象徴されている。タイプ1の場合、一見しては、あくまでも「本位」的に、思慮深そうにすら見えるだろう。竜頭万里子さんによると、タイプ1w2とタイプ2w1の間の違いは「絶望的」と言ってもいい程だそうである。タイプ1は「どう現状認識されているか・されるべきか」という態度で世界に接しているとでも言えるかもしれない。官僚的と云えば官僚的。
竜頭万里子さんによると、ロシアのプーチン大統領はタイプ1w9であるそうだが、あの人の獲物を狩る様なお顔はタイプ8的とでも形容されるものかもしれないが、敢えて「タイプ1的に」説明が氏のキャラクターにおいて与えられるのならば、現状認識に特化された秘密警察職員もしくはインテリジェンス(固有名詞)とでもいったところか。「現象を狩る」とか。タイプ1は女性でもKGBの(旧)職員とでも形容されるべくのヒトが多い、特にタイプ1w9の方に。タイプ1w2はドラえもんのマンガの出木杉君の様なキャラ立ち。あくまでも社会的キャラクターのビジョンの問題だが。そういうことでは、ナチスのヒムラーのエニアグラムのタイプが何であるかは問題ではないということだが、竜頭万里子さんもヤクザの世界はタイプ2w1(の世界)とおっしゃっていた通り「我々SSと総統は一心同体!」な(世界の)ものであり、かの有名な強制収容所で被収容者のユダヤの人たちが視察に来たヒムラーに向かって「長官!我々はこんなに頑張っております!」と訴える場面の写真が撮られているということには事の一抹が浮き彫りにされている。私はここでタイプ7w6やタイプ6w7について語るつもりは無いが、コミュニケーションツールとしての言語能力の高さというのはそういうものだろう。
……だから、例えば、料理ということを考えた場合、料理するということであるにしろ料理されたものをいただくということであるにしろ、それを愉しむ才能というのはタイプ2の特にw1の人たちの特権であるということが言えてしまうかもしれない。タイプ2の人たち特にw1の人たちというのは、食事を愉しむ能力、もっと言えば幸せを享受する能力に長けているということが言えるかもしれない。私Shinpei Suigura(杉浦真平)は憎しみでものを食うところがあり容易に過食症に陥る。肉じゃがを出されて「どう?おいしい?」と聞かれて、「じゃがいもの味と肉の味がしますね」としかタイプ1の人は答えづらいかもしれない。タイプ2というのは、料理に際して「おいしいね!」と笑顔で言える人たちかもしれない。
「memo40」というタイトルの記事その他を参照して頂けると幸いです。
「お前の価値承認など求めてはいない」という相手が社会には存することをヒトは知るべきだろう。詩人金子みすずの「みんな違ってみんないい」というのは、臭いものをにおわなければいけない義務的心理をあらわしている(に過ぎない)。その他者の価値を認めることも無いし、その他者に自分の価値を認められる必要も無い、という他者が社会には存するということをヒトビトは知っているはずである。他者への社会的価値承認要請を行う者は疎ましがられるだろう。「社会的価値承認欲求(の存在)」という形容で為される人々はまだ社会的に是認される余地もあるかもしれない。しかし、これが前者となるとうっとおしがられ社会的に排斥されるだろう。それは、他者に対して自らの社会的判断を押し付ける者であったり、他者に対して物理的暴力を振るう者であったりするだろう。
人々は、笑えない話をされた場合、特定の客体に対する引きを感じるだろう。セックスをしながら「そのような」笑いに走る者が居るだろうか?自らのあまりの動物的行為に自虐的な滑稽さを認める者は居るかもしれないが、それによって「そのような」笑いが誘発されることは無いだろう。セックスだろうがマスターベーションだろうがそれによってもたらされるエクスタシーは(少なくとも「そのような」)笑いにつながりはしないだろう。
「意志が弱い」という表現で表象されるそれは、対象への既知性に基づく認識のことであろう。もちろんヒトはそれぞれ異なった人格を持っている。それは、「女集団」を意識しているもののそれである。(よって)私には、「ありのままの自分を分かって欲しい」という人間達のその価値感覚(というと間違いだろうが)は理解できない。それは、「私はできる!」というセリフによる表象だったりまた「私がやる!」というセリフによる表象だったり(「私はできる」は「私がやる(する)」の必要条件であり前者も後者も共に「私はできる」に属する)、実際的な意志の弱さだったりするだろう。その様な、「男集団」を意識する人間たちのそれは、社会を破滅へ導くだけだろう。それは「自由からの逃避」であり、責任も自由も無いマシーン達が作った虚無主義の社会、それはナチスと同義である。生物としての彼らに自由意志が無いとは、おそらく科学的にも、到底考えられない。もし仮に、彼らに自由意志が科学的観点(?)からしても、無いとすれば、それは擬声語として「アウアウアー」とでもしか発声出来ない赤ん坊と同じ生物である。そのおぞましさが分かるだろうか?ヒトの内最も残酷なのは老人ではなく生まれたての赤ん坊である。それはimmatureなどと云って済むものではなく、(もはや)natureの世界である。「出る杭は打たれる」という諺があるが、ヒト以外の動物を見よ。
「究極のエニアグラム」のタイプ1はタイプ2ではない。何か、タイプ1に該当するヒトビトをタイプ2の劣化焼き増し版扱いしたりアドルフ・ヒトラーに重ね合せてキチガイ扱いしたりする連中が居るようだが、「善い人間であらねばならない」ではなくかつ世界と肯定的に結びついているヒトビトの恐ろしさが理解されねばならないだろう。只、タイプ6にはタイプ6の戦い方が観察されるだろうが、タイプ6は調和タイプなので、そこまで過激に見えることは無い。そういうわけで、タイプ1の恐ろしさについて語るのならば、世界と肯定的に結びついていることで彼らはどの様な暴挙でも(ある意味)許諾してしまうということが挙げられる。プーチン氏を見よ。仮にクレムリンの高官達にタイプ7が多かったとしても、だからこそ、プーチン氏は信頼ということを大切にしているだろう。いくらロシアを(外部的に)鎖国しても、プーチン氏は(ロシアと共に)どの様な手でも取るだろう。それは、冒頭で述べた、「タイプ2的な仲間意識」ではない。
竜頭万里子さんによると、緊張型もしくは緊張し易い性格というのがあるそうである。防御タイプのタイプ1、タイプ4、タイプ7である。ちなみに、タイプ2w3が弛緩型の性格(?、あまり緊張しない)であることにかこつけて、タイプ2w1を緊張型の性格であると決め付ける者が居るが、タイプ2w1はタイプ1ではなくタイプ2なので、タイプ2w1が緊張型の性格であるということは無い。タイプ2w1でどんなにウイングの重い者であろうとも、タイプ1w2の緊張具合とは、比べものにならないはずである。ところで、内田春菊氏の漫画「こんな女じゃ勃たねえよ」の主人公の男キャラにはタイプ3w2の男性の特徴がありありと描かれている。まさに、これがタイプ3w2でありタイプ2w3とは違うところだとでも云い得る(タイプ3w2はタイプ3であり、タイプ2w3はタイプ2である)。さもすれば、タイプ2w3は自己強化系の様に鑑みられるかもしれないが、竜頭万里子さんによると「内面はアツいが、クールだと思われたい」タイプ2w3は自己評価に対しても「斜め45度斜に構えて」自己を客体視することが可能である人々かもしれない。自らに付随する出来事や自分自身について「大したことない」というセリフはまさにタイプ2w3のものとしてあるものかもしれない。
「小事でも大事になってしまう」のはタイプ4で、「大事でも小事になってしまう」のはタイプ5らしいが、タイプ5が「『大したことない』というセリフに自らを依拠する」ということは無いだろう。
スマートフォンやPCや(それらによる)ゲーム等で育ったヒトビトが、「社会的な」自己を当該的に求め始め、特には眼精疲労や物理的な頭蓋骨顔面の変形等々という事で観察される様に、病的になっているのは間違いが無い。医師達はこれを「スマホ脳」や「ゲーム脳」といって、深刻な問題として捉えている。「そこ」を通り越えることが出来れば、世界に対する認識が(順々にではあるかもしれないが)変わり、「眼が良くなる」等々の表現で形容され得る様に、例えば勉学全般に精通することが出来る様になるやもしれない。医師達が危惧している事には、まともなもしくは優秀な医師のなり手の減少がそれによって招かれるということもあるかもしれない。……日本人の「抵抗」の仕方というのは、基本的に人民総奴隷化である。おそらく江戸末期であったと思われるが、「ええじゃないか運動」というものにはこれが如実にあらわれている。もちろん「抵抗」しない日本人というのも大多数居る。竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ2w1をそのまま奴隷であると言う事は出来ないが、同タイプ2w1の非本位性があくまでも本位的であるという事は奴隷というものが如何なるものであるかを如実にあらわしている。
何らかの手法によって、実際の認識と肉体が自らに対して表出するサインの間にズレを与えて、対象の肉体を犯していくという攻撃の仕方が生物(を操る)学的に可能であるかもしれない。これは、もし出来るとしたらば、生物学的にだけでなく社会学的にも可能であろう。後者の場合でも対象の身に危険が及ぶことは間違いが無い。犯罪の被害者や加害者に仕立て上げられたり、場合により「原因不明のスキゾフレニア」だったりするだろう(…というのは、もはやスキゾフレニアの内逸(jurisprudence)にどんどん変遷が加えられているということである)。その様にして現出される、例えば新しげな「妄想」について、これを食い物にする輩というのが居る。例えば、当の精神科医である。精神科医が何を研究しているのか私は厳密には知らぬ。只、一種の社会適応と平行してのアラワレを精神科医が取り沙汰してネタにしているのは間違いが無いであろう。「(抗精神病)薬によるコントロールは出来ている」という患者へのたしなめも精神科医のやり口の一つである。薬効は在るだろうが、この件に関しては、それだけである。「良薬口に苦し」という諺の通り云われるべきものであっても、その薬効部位が脳である場合、それは必ずしも当てはまらない。「苦い」か「苦くない」かが判断の基準として為らないからである。
竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ8と竜頭万里子さんに「判定」されていないのにタイプ8であることを自称したい連中のアピール。遠くの方で舌打ちして接近してきたら委縮して「見せる」とか。そういう単純な問題ではないので。いや、攻撃的だよ?彼らも。どういう「攻撃的」かは私はよく知っているが。「攻撃タイプ」だから。ただタイプ8のヒト達とは違うということ。
場合によって同タイプ3アピールということもあるかもしれない、タイプ3ぽいタイプ2w1のヒト達っているじゃん?凄く攻撃的なんだよね。結果として協調出来ているかどうかということとは別としてタイプ3のヒト達ってもっと協調的な雰囲気出してる、「調和タイプ」だから。ここで言う協調的な雰囲気というのが私の一義に基づくものなのでそれはそれで問題ではあるのだが、竜頭万里子さんがタイプ3であると「判定」したヒト達をよく観察してみればよいのでは?
あのね、私は別にタイプ2のヒトビトを侮辱しているわけではないので。タイプ2にはタイプ2の特質があるのに、何故それを否定するのか、ということ。「善い人間であらねばならない」ということがどれほど尊いことか、ということ(これ自体にも彼らの特質があらわれている)。
「アウトサイダー意識」があるのはタイプ8とタイプ4らしいが、「究極のエニアグラム」のタイプ4の特徴であるとされている一点集中型とはどういうことか。そうなったらそうなったで今度はそのポジションにての過度なまでの能力を発揮し出す、とでも形容され得るものかもしれない。それは、一見しての、解釈逸話としての、バランスの取れている者より、社会参画意欲が高いということだろう。つまり、そう描かれている、というか、そうある社会における自らの立ち位置を明確にしたいという欲求のあらわれがその、一見しての、解釈逸話としての、一点集中ということとして見做されるということである。物事の多面的な答えをそのまま受け入れることは、私には難しい。かつて、私は実弟に「お前(の物事の鑑み方)は一義的だ」と言われたが、防御タイプである私の自己防衛機制は分厚く、多面的な何らかの客体でも一面的に捉えようとし結果その客体は一義化されてしまうということになる。それは言葉の世界に生きているからではないか?私はいつも目を見開いているが、口に出して言わないことも多い。何らかの客体を指し示すにおいて、私は、例えばあれ・アレ・thatと「名指し」しないと気が済まないことも多い。
タイプ7は素行や言動に問題があるヒトが多いので、そういった側面だけから鑑みているとバカに見える、が、よくよく鑑みていると、本質、というよりは、深層、が、見えてくる、とでもいったところのもの。「騙されんなよ」としか言い様が無い。一番騙されにくいのはタイプ7とのこと。……「タイプ7→ワザとワザと」、「タイプ3→素でワザと」、これで分かり易いだろう。竜頭万里子さんはタイプ7の形容として「心にぽっかりと穴が空いている」などなどと書いておられたが、その説明文と合わせて「ワザとワザと」という説明でタイプ7の本性(?)が分かり易いであろう。タイプ3は、変な言い方だが、常識という主体性があるので、「素でワザと」という説明で分かり易いであろう(いずれにしろ調和タイプ)。通時性と共時性がイーブンになっている、どちらに重きが置かれるかといえば(タイプ3の場合は)通時性だろうが。「ワザとワザと」と「素でワザと」という形容で(その一部が)為される者ということを考えてみれば分かる通り、「能ある鷹は爪を隠す」のは明確に前者タイプ7。タイプ3は実存的というか(この場合)隠す能自体が無く、そこで「(タイプ3は)無根拠に自らを他者よりワンランク上と見做す」という解釈が出てくる。「隠さないことを隠す」のはタイプ7。「隠すことを隠さない」のはタイプ3。……快楽主義というところの究極は、危機回避であろう。死よりも恐ろしいものなど枚挙に暇が無いことを知っている者の場合はだが。ところで、「皆が知っている」場合どうなるか?事実報告だけが該当社会において為される様になるだろう。太宰治氏が滅びの民について云々と語っていたが、滅びが状態である様に人々の認識を彼らはズラしていく。それは、一種の伝染病の様なものである。そこにあるのは、有情という病であるというわけではなく、情の有りが病的になってしまっている痴態である。何も学べなくなるというわけではないが、おそらく、知能が歪んでいくと云うと正しい。…ナチス支配下のドイツを生きていた老人達は、決まってこう言う、「皆知っていた」、「皆分かっていた」と。
タイプ9を優柔不断であることや恒常性といった切り口の側面から捉えると烏合の衆という結論が出て来かねないが、特徴が無いのが特徴ということは汎用性の高さを示しているのでは決してない。竜頭万里子さんによると、タイプ9は「調停者」であるそうだが、まさにそういう立ち位置の人というのは実社会的に多々方面にて存在するだろう、現象の本位的にどうであるかは別として。タイプ9w8で結構(柔和さと重厚さが同居した様な)厳しげに見えるヒトが居るが、例えばタイプ2w1の擦過傷じみたそういう「厳しさ」とは明らかに違う(ちなみに、これに関してはタイプ7w8のイメージ作り過ぎ、転んでもタダでは起きないのはタイプ7w8だろうが)。……タイプ9の社会的キャラクターのビジョンという場合、どうも勝手に良くないマンガ的なものを抱くヒトが多い様だが、タイプ9にも有能なヒトは多く居るだろう。只、その「あらわれ」が「(どう)タイプ9的」なものかという問題がそこに立ち上がるわけであり、そういう意味で(は)竜頭万里子さん曰くの特徴ではなく「特長」ということなのだろう。……「怒ったことがないのは、タイプ5w6やタイプ9w9あたりから探します」ということだそうであり、竜頭万里子さんはタイプ5w6を「冷淡(な感じ、他存在から鑑みての解釈逸話として)」とおっしゃっていたが、確かにタイプ5w6は冷淡な感じがあるがそれはタバコ(の臭い)の感じというものであり、日本語で「冷淡」という場合、それはタイプ5w6よりどちらかというとタイプ6w5を形容するのに適切だろう。参勤交代という無駄を課し、「農民は生かさず殺さず」と云ったのは、タイプ9w8である徳川家康である。
竜頭万里子さんは、タイプ5は人気のタイプとおっしゃっていたが、やたらとコバルトブルーより濃い青の基調で何かをアピールしているヒトたちが居るが、「自分は誰よりも賢い!」の世界に入っちゃってる気があるので、「そのタイプのOSが入っている」ということではタイプ6w5かとも思われるし自覚意識的というかリマインダー的(?)ということではタイプ4w5かとも思われるが(彼らこうやって被害妄想の類に絡め取られていくのでは?というか、no sideでひたすらカオスる四分五裂)、ともかく、あのヒトたちタイプ5ではないよね、ということ。
"Understanding the Enneagram"において、リソエニアグラムのタイプ4w5の特徴の記述とタイプ5w4の特徴の記述において注意が為されるべきであると記載されていた。「私は見たものを語っている(だけだ)!」というのはタイプ5の特徴らしいが、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)の「形容表現の域を飛び出るものではないものであって申し訳無いのですが、というわけで、私の文章の書き方は絵を描くという行為よりも絵画鑑賞に近いということが言える、ということを申し上げておきます。」というのは、タイプ5w4ぽくはあれど実質タイプ4w5であると私が表明しているということになろうが、事の実質タイプ5w4であるということになるだろう。リソエニアグラムのタイプ5は全て竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ4w5であるという竜頭万里子さんによる直言がある。しかし、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ4w5ではなくタイプ4w3であり、これは竜頭万里子さん「判定」済みの結果である。そもそもこういったことについては当の精神科医らが最も敏感であり(竜頭万里子さんによると全ての精神科医は「究極のエニアグラム」のタイプ2かタイプ4である)、精神医学の定義を取り扱い得るのは精神科医だけなので、こういった見解はおかしいものではあるのだが、竜頭万里子さんによると私Shinpei Sugiura(杉浦真平)はスキゾフレニアではないということなのかもしれない。しかし、精神科医は明確に私Shinpei Sugiura(杉浦真平)をスキゾフレニアであると言っているが。竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ5に関する記述はリソエニアグラムも含めた一般のエニアグラムには記載が無いそうである。ちなみに、リソエニアグラムのタイプ5に該当するとされている故ウンベルト・エーコ氏の顔面の画像をbingで検索したところ、一枚だけ「究極のエニアグラム」のタイプ5w4に該当する(と思われる)ものが出てきたがその他のものは全て「究極のエニアグラム」のタイプ4w5のものであった。
余談だが、スキゾフレニアというのは精神科医による定義なので、精神科医が私Shinpei Sugiura(杉浦真平)に対してスキゾフレニアであると診断結果を出している限りにおいて、「私Shinpei Sugiura(杉浦真平)はスキゾフレニアの患者である」はtrueである。精神科医が携わる精神医学を採用したくないというのであれば、その様に自分で取り決めればよいであろう。その結果被る社会的不利益の存在とここでの議題とは(基本的には)別問題である。「精神科医がShinpei Sugiura(杉浦真平)に対してスキゾフレニアであるという診断結果を出しているからといってShinpei Sugiura(杉浦真平)がスキゾフレニアの患者であるとは限らない」はfalseである。残念ながら、定義というのはそういうものである。私は、個々の精神科医を全般的に信頼しているかと問われた場合、必ずしも是とは答えられないが、精神医学は信用している。
"Understanding the Enneagram"においてavariceとタイプ5の説明書きに出てくるが、壮大な世界における矮小な自らの存在とその様に定義付けてしまうことが一般的なavariceの語義とは異なる、精神医学におけるスキゾフレニアにおける治療抵抗性や、世界との乖離性一般を説明付けさせる。タイプ5という群にカテゴライズされる人々が、マテリアルワールドだけにおいて生きているのではないということは、彼らがエニアグラムにおけるinvestigatorであることを示している。ノン・アタッチメントと「そっと触れるものに夢中」の連関について、タイプ5という群にカテゴライズされる人々において、世界が(その様に)乖離しているものである。「石橋を叩いて壊す」までの理論武装癖(彼らはあくまで理論を壊そうとするのだが)も彼らの特徴であり、彼らは生き方にこだわるということになる。皮肉めいた言い方であり、こういったものについては私はあまり好まないが、あくまでも結果論として、だが、「自分を保つのに必死」とでも云い得るものかもしれない。そして、これは竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ4における「存在の不安」のものであり、「自己同一性における」という説明書きを加えてもよいかもしれないが、「世界に所属しているが、その一部ではない」、露骨に「究極のエニアグラム」のタイプ4w5の特徴であるかと思われる。リソ氏はリソエニアグラムのタイプ5の精神をコレクター・メンタリティと形容しているが、竜頭万里子さんは「究極のエニアグラム」のタイプ4とタイプ7は似ているとおっしゃっている。ちなみに、故北大路魯山人氏は「究極のエニアグラム」のタイプ5w4だそうだが、具体的な収集家についてはそちら側のヒト達ということだろう。
竜頭万里子さんもそういったことはきちんと述べておられたが、「究極のエニアグラム」はキャラクタライズドマスターベーションのツールではないので。自分についてきちんと知ろうね、というもの。
子供は親のエゴの産物ではない。エゴと愛が履き違えられるべきではない。そういう人間達が親になり「親」を自称して子供を猫可愛がりしたり場合によって虐待したりするから、子供達もエゴまみれになりどんどん悪くなっていく。子供達は親の所有物ではない。子供たちにもそのくらいの年頃で自立心が芽生え始め彼らは親離れし始めるが、大体齢十を過ぎて、普遍的善悪についての分別の付かない者は現代社会においては排斥されるだけである。この点において、だが、「空気を読めない者は排斥される」というのは正しい。これは社会的善悪ではもちろん無い。この場合、社会的には責任の所在ということが重要となってくる。モノをいうのは法廷である。社会が法廷であるというのならば、(社会における「具体的」)法廷など必要あるまい。そこにある虚無主義、それはナチスのものである。"No one is above the law."とはよく云ったものである。「法は社会の反映である」。
戦争にルールなどある訳が無かろう。それに与する説を唱える者は、戦争というものがどういうものであるか理解していない。戦争は勝つ為に勝つのである。戦闘行為の為の戦争もしくは戦争の為の戦争を標榜する者は、戦争賛美者であり単なるゲームマニアである。戦争賛美者でない者は戦争において勝つことを第一義として該当の戦争に及ぶだろう。だからこそ戦争というものは、おぞましく、恐ろしいのである。忌避されるべき事態をそうではないと認識しろと人民に強制したい戦争賛美者達は、まさに第二次世界大戦中の大本営発表の如きものにコミットすることを厭わない。
今更「竜頭万里子を自称する特定一個人かもしくは人間集団」とは言いたくないから、あの人、と、ここでは言っちゃいますけど、あの人今もやってるでしょ?昔の(?)でも。その「判定」が絶対ではないが、竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」ということでは、竜頭万里子さんに「判定」してもらえばよいんじゃないの?
ちなみに、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」の、タイプ2やタイプ4w5や調和タイプではない、そういう竜頭万里子さんからの「判定」は頂いていない。
ところで、竜頭万里子さんがおっしゃってた「顔相」ってあるじゃん?あれは顔面の造形や人相や表情の造りではないので。
最近多く、「俺はこういう顔面の造形だからこう『判定』しろ」と言わんばかりの、「被形容的に『要らん』なヒトビト」と言っておけば分かるかな?そういう連中がやたらと絡んでくる。いや、お前は違うから、っていう。例えば、特定の造形の顔面のヒトが竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」における特定のタイプだと「判定」されてそれに似た造形の顔面のヒトがそれと同じタイプだと「判定」されるとは限らないので。よく自分の顔見ろよ、っていう。また、例えば、その「顔相」について、人相の悪いヒトたちがタイプ8、タイプ7、タイプ3であるとかそういう短絡的なことを言うことも出来ないので。
竜頭万里子さんは「全ては観察力です」とおっしゃっていましたが、私はさすがにそうとまでは言いたくありません。只、顔相について、それぞれのタイプにまつわる「正しい」顔相というものはあり、竜頭万里子さんにおける顔相の認知(?)に、自らによる顔相の認知を、合わせていくと、観察力を養うことが出来るよ、ということかとは思われます。只、その性格タイプの顔相(を持つ者)イコールその顔相の性格タイプではないので、ということです。
如何に人工知能やコンピュータの類で精度の高いことが出来ようとも、「あなたが(ヒトとして)生きている限りにおいて、あなたが、」ということなので。私の場合だとfacebookでよくMIT(マサチューセッツ工科大学)の広告が出てきますけど、それらの最先端の技術者のヒト達とてそれを分かっているからそういう教育サービスを提供してくれているということだと思われますが。ヒトが全く居ないというのであれば、宣伝をする意味が無いし、効率という概念自体が無くなっているかも。
ところで、
連中が本当に「どうでもいい」と思ってるんだったら、こちらを完全に無視するはずなので。
仕事仲間はいわゆる「ディスる」相手ではない。そうすれば最大限に自分の能力が(広義の意味で)発揮されるはずなので。
あのー、自己の存位ではなく本位に基いた、そういう、ウジウジした、もの?適当に上手く処理できないの?子供じゃないんだから。私はちょっと特殊な事情があるから叶わないが、病院行け。社会制度なんかいくらでも使え。
(※私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、竜頭万里子さんのエニアグラムの講座は受けていませんし、確かに宣伝はしてますけど勧誘していると思われたくないので。誤解を防ぐために取り敢えずこういう書き方でも書いてはおきます。
竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」は、ということですが、一つの切り口というか一つのものの見方であり、少なくとも竜頭万里子さんによってなされるその「タイプ判定」は絶対ではありません。かつて、竜頭万里子さんは、自らをして「タイプ判定のプロと自認しています」とおっしゃっていましたが、それはそういうことを自認した上で「タイプ判定」を執り行っているということを自覚しているという竜頭万里子さんによるメッセージではないでしょうか。竜頭万里子さんは神ではありません。しかし、竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」ということではその「タイプ判定」に不可謬性が存在するということでしょう。つまり、竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」は完全なものではなく、それが全てではないというかそれ「で」全てではないということです。そして、竜頭万里子さんによる「タイプ判定」が必要無いという方はアタッチしてもらってもどうしようもないですよ、ということでしょう。……さすがに、「刷新」については笑ってしまいます。お金を払って「タイプ判定」してもらった猛者はひょっとしたら私Shinpei Sugiura(杉浦真平)だけかもしれませんが、(竜頭万里子さんこれをご覧になっておられるか知りませんが)詐欺罪で訴えられますよ?
……男左前、女右前。当方の敵方連中が逆にして騙そうとしているのはバレバレ。何の為に学生服があるのか。……連中の(最後の)やり口は、基本的に(な)オレオレ(詐欺)。当該のものが該当のものだけで(無根拠に)存在を許諾してもらえると思ったら大間違い。マザーコンプレックスに塗れた連中は万死に値するでしょう。基本的に、それぞれの該当の個々人をその母親が甘やかすと連中の様なものが出来上がります。育てるのと甘やかすのは違います。育児は科学的根拠に基づいた手法で行われるべきでしょう。右手親指でスマートフォンを弄っていれば、発達障害患者も出来上がるでしょう。甘やかしというのは、基本的に、ネグレクトの一種でしょう。……これは別に竜頭万里子さんの「究極のエニアグラム」のタイプ4について言及しているのではありません。もうはっきり単刀直入に言いますけど、同タイプ4のヒトでもマザコンじゃないヒトって居ますよね。私Shinpei Sugiura(杉浦真平)もそうですし。別に竜頭万里子さんを皮肉るつもりはありませんが、「タイプ判定のプロフェッショナル度」が上がれば上がるほど「判定」(者)における「リスク」は上昇してゆくでしょう。つまり、そうなれば、それにおける既知性は当該性を説明することになるでしょう。……「毒気を抜かれた」みたいなことをおっしゃっているヒトが、「究極のエニアグラム」のタイプ2w3についての云々というわけではなくて、そもそもそれがナンセンスなものであり、そのヒトが右傾化したということでしょう(「究極のエニアグラム」を介する必要は無く、只そういうことでしょう)。)